11 妙秀。たずねまいらすべき事は多き中に、唯今(=只今)宣いし十ヶ条の内に、空しき誓いすべからずと有るは理りにてさぶろうが、世上に、人の取り沙汰あるは、キリシタンには誓詞も起請も(=貞永式目以来の誓約形式)なければ、人の疑いを疑いを決すべきよう(=方法)もなし。別して国郡をも知る(=治める)人は、家来の上にも、又互いの上にも、二心なく申し合わすべし有るにも、或いは逆心なく、忠節を抽きんずべし(=ぬきんずべし:尽くすべし)などと云うことをも、誓文誓断のありてこそは、(無難に)すみ(=澄み)そうらえ。加様のことなくては、国群(=郡)も治めがたしと申されそうろうは如何に。

 幽貞。いや。キリシタンにこそ、誓詞も誓文も有る事にてそうらえ。知らぬ人は左様にも申すべし、十ヶ条の内に、空しき誓いすべからずと有るも、大事の疑いを決すべきときの様にて侍り。常に空誓文をなす人は、事有る時、誓いをなすも頼みにならぬによりそうらいて、唯なおざりなる事(=ありふれたこと)に、かろがろしくは誓いすべからずと云う事にてこそそうらえ。誓文も誓詞もなくては叶わぬ事にて侍り。但し其の誓文は、仏神の名に掛けてはしそうらわず。其の故は上件(=かみくだん:上述の件で)、申し尽したる如く、仏神は虚空法界(=真如)なる事にてそうらえば、用うべき物に非ず。キリシタンの誓文誓断は、天地の御作者、貴きDsの御名に掛け、此の事に偽りなし、二心あるべからずななどとちかいてよりは、喩い命はたたるるとも、其の契約をたがゆること叶いはべらず。先ず、思うても見玉え。日本にて少しも物を知りたるようなる人は、神も仏も、我心(=がしん:自分の心)の外にはなしと悟りそうらえども、時に望んでは、当座の難をのがれん為に、人の心をすかさんと(=油断させようと)、とうとくも思わぬ仏神の名に掛け、罰を象(=蒙)らんなどと云うつれの誓文誓詞に、真の主Ds在ます事を、命にかえても信ずるキリシタンの誓文、起請のたしかなる程をば、一つ口にも(=同じ様なものだと)云いてな玉わりそ。

 妙秀。左様には宣うとも、キリシタンの内にも、誓詞などをしても、其の約のたがうも侍るは如何に。

 幽貞。キリシタンの内にも名ばかりにて、不信なるわろき者も侍れば、自然は(=当然)、さおうの事もそうらうべし。去り乍ら、其の教えの科(=欠点)になる事にては侍らず。其の故は、名医の治療にあずかりても、禁好物(=きんこうもつ:飲食可能なものと不可のもの)の法度にかかわらず、獄物をぶくし(=服して)死すればとて、医者のあやまりとはならず。その者のあやまりにて侍り。其の如く、キリシタンの教えには誓いの旨をば、たがえざれと堅くしめされされさぶらえども、不信の者は云うに足らずそうろう。其の上、茲に心得玉うべき事の侍り。キリシタンの内にも誓いのたがう物もあると、人の目に掛かることは、たしかなる者をおおき(=多い)中に、まれにさようの物の侍る故にてそうろう。余宗には誓文をちがえ、誓詞を破らでも、心ろに掛けぬが故に、其の約をみながたがうのみなれば、見とがむるまでもそうらわず。常の事にして置きそうろう。「君子のあやまちは日月の蝕の如し」(『論語』子張篇)と申すも、あやまるまじき人のあやまるは、人の目をかくる(=目に掛かる)事にてそうろう。小人(=徳のない人)は、常にあやまりのみにて侍れども、是は各々、其の党に於いて(=それぞれ、その仲間内で)とがめぬ物にてそうろう。去れば、キリシタンの内にも誓約のたがうも有りととがめられそうろうは、常の事にして、余宗の内にはとがめられぬよりは勝りたりと心得玉え。

 

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