14 妙秀。誠に、此のキリシタンの出家宗は、余宗のには替り、利欲を離れ、却って慈悲施行を専らとし、浮世をば離れきりたる人々にて在ますを、いわれぬ人(=わけの判らぬ人)の申し様にてそうろう。然れば、はや是も聞き分けまいらせぬ。さて今一つたずねまいらすべき事あり。是程まで勝れて貴き教え、天地の御主の真の御法(=みのり)なれば、とく日本へも渡り玉うべき事なるに、何とておそく渡り玉うや。

 幽貞。御不審は理りにておわする也。但しDsは、わたくしなる主にては在まさず。天地万像の御作者なれば、キリシタンの国ばかりの者を御作なされたるに非ず。日本も、大唐も、いずく如何なる国々、嶋々も、此の御主の御めぐみにもれたる所はなし。去れば、御教えも一切の国里に人間さえあれば其のまま、人々に授け玉える事なれば、おそしと申す事はそうらわず。但し此の教えと申すに三様(=みさま)がそうろう。一には、ナツウラ(natura)の教え。二には、エスキリツタ(escriptura)の教え。三には、ガラサ(grasa)の推してにて侍り。いずく如何なる所にも、人さえあれば其のまま授け玉える教えと申すは、此の三つの内にはナツウラの教えにて侍り。ナツラの教えとは、人々が己れが心ろに、たが(=誰が)教えるとはなけれども、此の人がぬすみをすれば、わろし。人になさけを掛け、哀れむはよしと、生まれながらに善悪を知り分くる智恵のそうろうは、是がDsが、人々に其のまま与え下さるる教えなれば、此の智恵の光りに順い行かば、迷うまじき事にて侍るを、人の心が、わたくしの欲に引かれ、邪に入るが故に、残る二つの教えは重ねて授け下されたる事にて侍り。さて、其のスキリツタの教えとは、前に聞き玉う十ヶ条のマダメント[]書き付け、如此(=斯くの如く)に身を治めよと教え玉いし事、是にても猶、人の心ろが善に至るに難しかりしかば、申しつる如く、Dsが、人界(=にんかい:肉体)を受け玉い、御出世なされ、彼十ヶ条の御掟を保つ力を先とし、其の外、後生を扶かる為の勤めをなす(ための)御合力(=ごこうりょく:神の御協力)をなさるる今の教えを、カラサの御教えとは申しそうろう。此の二つの御教えをば、Dsは直に授け玉わず、導師をつかわし伝え玉う事なれば、人の力には一切の国里を一度にかけめぐり、教えること叶わねば、次第次第に近きより遠きに弘まる事にてそうろう。一向(=むやみに)おそきとばかりは、な宣いそ。よし又、おそく渡りたる(=伝わった)にもし玉え、おそきとて其れがきずに成る事にては侍らず。喩えば、大唐より昔は渡らず、近代に印子(=いんす:純金)などの渡りそうろうは、おそきとても、人は皆是を嫌らわず。唯、重宝としそうろう。謂れぬ事を宣わんより、御身は早く此の宗に入り玉わん事が肝要にて侍り。

 妙秀。たずねまいらする事々に、答え玉う程の理りは、何れもありがたい奇特におぼえ候へば、今ははや御寺へわらわも召し具し玉え。授法申しまして、今より後は御身と共に、同じ流れの御法(=みのり)の水を結んで(=水を掬ぶ:水で清める、受法・帰依する)、心のあか(=垢)をすすぎ、二世(=現世と来世)を掛けて替わらぬ友と也まりらすべし。返々も(=かえすがえすも)難有(=有り難き)こそそうらえ。

 

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