妙秀。さてさて、今まではキリシタンの法には、記念祈禱の様なる事は、曾てなきとのみ思いまいらせしに、唯、其の頼みの掛け処を替えて、現世の寿命、福禄、後生の安楽、善処をもいのり玉うとあるをば知らず、キリシタンの教えは、何もかも打ち破らるるとのみ申すは、云われぬことにて侍る。実(=げ)にも又、此の頼みの掛け処をば、かように易え(=かえ)玉うこそ、理りにてそうらえ。此の中、語り玉いし如く、仏法は畢竟空に極まり、「我心自空、罪福に主は無し」と立てたる物なれば、仮令(=たとえ)、檀那(=布施をする施主)をつけん方便の為に後生をねがい、現世安寧の祈禱をせよなどとて、護广(=護摩:煩悩を焼き払う修法)の、加持(=仏の加護保持)のなんど云い、大般若(=大般若波羅蜜多経)を転読(経文をパラパラと開いて読む)させてよからんぞなどと謂わるれども、其のいのるあて所(=宛て処:対象)は、畢竟空なれば、感応すべき主なし。殊に(=ことに)大般若などは別して般若部は、畢竟、空の法門の真中(=ただなか:中心)なれば、是を誦み(=よみ)てあればとて、何者かが感応して利生(=御利益)すべきと云う謂れなし。又、真言の護广(=護摩)、加持力とても何の奇特(=奇跡・不思議)も有るべきやうは侍らず。其の極めは御身の語り玉いし如く、地水火風空識の六大を能生と云いて(=五大は理で胎蔵界に、識大は金剛界に属し、その六大が万象を形成する)、万の仏、菩薩までも是より出で来れば、その出で来る者をば所生の法と名付け、『即身義』にも、此の所生の法は、上は、法身(=真如、法界の理を有する無色無形の理仏)に達し、下は、六道(=衆生がその業によって赴く世界:地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)に及び、麁細(=そさい:粗細)隔てあり、大小差ありと云えども、而も(=しかも)尚、六大を出でずと云いて、此の六大をの内に於いて、行者は、入我我入(=如来が我に入り、我が如来に入る衆生即仏)の観に入りて、本尊も我も隔てなしと云うが真言の心にて侍り。加持の観念をして五穀をやきたればとて、何の功徳あるべしとも見えぬ護广(=護摩)にてそうろう。然るに、今まで御身の宣うキリシタンの教えは、此の真言の究竟(=究極)とする天地、六大も作者なくて叶わず。此の作者、即ち、Dsにて在ますとあれば、二世のねがいをば此のDsへ掛けまいらせん外はなしと、わきまえてそうろう。去れども茲に少しの不審が侍る。天地には、はや作者なくて叶わぬ道理をば聞き侍りてそうらえども、其れは一体にかぎらず、多端(=あまた)の作者もあるべきかとの思い事にて侍り。

 幽貞。御身の心得の通り、何れもよくそうらえども、作者があまた有るべきかとの事は、わろくそうろう。万像の御作者Dsは、唯一体にして二体が共にあること叶わず。其の故は、天地万像の主には、諸善諸徳が、兼ね備わり、万事に叶い玉わずんば有るべからず。然れば先ず、あまたの主が有るにして(=有るとして)、一体の主より余の(=他の)主を亡くしたく思い玉わんに、亡くし玉う事叶わんや。叶わずんば、万事に叶い玉う主にては有るべからず。然と申すにも足らず。又亡くす事が、叶い玉わば、亡くさるる方は、Dsにて有るべからず。茲を以て、Dsは唯一体の外には有る事叶わぬとの道理にてそうろう。其の上、又証拠も侍り。見玉え。日本の国々の政も、太守(=大名)が別なれば替り、同じ太守の下なれば、五ヶ国、六ヶ国も成敗(=政治)は替わらず。其の如く天地の主も別ち別ちならば、天地の間の政なる四季の転変も同じ如くには治まらず。夜ひるの隔ても違い侍るらんなれども、是に乱るることなければ、天地には唯一体の主のみにて在ます証拠にてそうろう。其の上、いずく如何なる国の人も、衣服の替りはあれどお、横眼(=おうがん)、鼻直(=びちょく)と申して、まなこ(=眼)は横につき、鼻はたてなる事を初めとして、五体六根の替りなきは、唯一体の作の物(=作った物)ぞと、印を推(=捺:お)されたると同じ事にてそうらえば、Dsは二体も在まさずとわきまえ玉え。

 

次へ