妙秀。天地[]主は唯一体にて在ます道理をば聞きわけ侍りぬ。さて、其のDsは何と始り玉うや。

 幽貞。いや。Dsに初めと申す事は在まさぬ。唯、万物の初め手にて在ますなり。惣じて何[]も其の上なき所に至りて止み、尚其の上はといわれぬ極めが有る事にてそうろう。喩えば、金の類いに取りて(=例を取って)ならば、鉄(=くろがね)を下にして、其の上はと云えば銅(=あかがね)と云い、又その上と云えば銀(=しろがね)、又其の上はと云えば黄金(=こがね)にして、尚其の上はと云うに、此の上なし。人に取りても、土民百姓より次第に尋ねあがれば、上に一人、天子に帰して其の上なし。其の如く、極め極めて上なき万物の作者をDsと申すと心得玉え。始め在まさぬ故に、又終わりも在ます事なし。

 妙秀。是も理りにて侍る。さて、其の上、Dsの尊体は何と在ますや。

 幽貞。Dsの尊体は此の宗の経文の辞(=ことば)には、スヒリツアルススタンシヤ(spiritualis sustantia色法にあらざるスヒリツアル正体『日本のカテキズモ』)と申して、色形ちを離れ玉える実体にて在ます也。

 妙秀。然らば、其の目にも見えず、手にもふる(=触る)べき様なき物とや申さん。

 幽貞。目に見、手にとらねばとて、必ずなきと云わん道理なし。目にも見えず、手にも触れざれども、物は用を以て其の根本の体を知る事は、常の習いにてそうろう。喩えば、遥かの塩路(=潮路)をへだて、漕がれ行く船を見に、其の水主(=かこ)、揖取(=かじとり:舵取り)は見え侍らねども、身ずから(=ひとりでに)行くこと叶うまじき船の、思う(=目指す)湊の方に向い漕がるるを以て、必ず、其の船にはろ(=櫓)、かい(=櫂)を立て、 揖取る船子(=かじとるふなこ)の有る事を知らぬ物はなし。但し、のりたる舟子の見えぬとて、あの船は独りこがるると云わば、愚痴の至りなるべし。又、いずくともなく、此の坐敷へ礫(=つぶて)の飛び来たらんに、打ち手の見えねばとて、此の石が、独り飛び来たりたりと申すべきや。つぶてのくるを以て、見えぬ打ち手をなくて叶わぬと知るは、常の習いにてそうろう。然れば、仰いで(=仰いで)空を見玉え。船よりも尚独りは旋り(=めぐり)難き諸天の逆行、順行を以て(=天は九天までが右に旋回、第十天は左に旋回)、見え玉わずとも、其をつかさどり玉う主は、在まさで叶わぬと云うことは、明かに侍るべし。又、伏しては下を見玉え。つぶてにも勝りたる此の大地の、コロリと打ち出されて有るを以て、見玉わねばとて、此の主をいかでか、なきと申さんや。其の上、Dsは見え玉わぬこそ、本意にてそうらえ。其の故は、色形ち有る物は、如何に大なりと云えども必ず限りなくて叶わず。天地程の大なる物はなしと云えども、是も色相ある物なれば、其の量りはあり。Dsの尊体に量りが在まさば、Dsにてはあるべからず。此の故に、色相備わり玉わず。是をスヒリツアルススタンシアと申して、色形ちなき実体と申す也。実体とは虚しからざるの義也。むなしからずとは、其の体(=本体)が、サビエンチイシモ(sapientissimo)とて、無量無辺の智恵の源にて在まし、ミゼリカラルヂイシモ(misericordissimo)とて、又量りなき慈悲の根源、シユスチイシモ(justissimo)とて、憲法(=公正・正義)廉直の主にて渡らせ玉う。都て(=すべて)、諸善万徳は、一つとしてもかけ玉うことなく、秋の兎の毫(=け)のさき程も不足と申す事も、不善と云うことも在まさぬが故に、実体にして空しからずとは申す也。是を又、経文の辞(=ことば)に、ヲムニポテンテ(omnipotente)と申して、万事御自由の主とも申す也。此の、万事叶い玉うを以て、天地万象を一物なかりし処より、かくは作りあらわせ玉うぞ。但し、作り玉うとは云えども、今の人間の家を立て、城を造り出すようなる事とは思い玉うべからず。其れは作り出すにはあらで、有る物を取りて、なり形ちをなおし、さし合わする(=組み合わせる)のみ也。其れさえも色々の手間暇を入れざればならざるに、Dsは此の天地を下地もなく、御手間も入れ玉わず、「あれ」と思し召す御一念より此の如くにあらせ玉うは、真の御作者とは是也。天地を作りあらせ玉うと共に、マテリヤビリマ(materiaprima)と云いて、万物の下地なるべき物をも、其の天地の間に兼ね備え玉えり。然るを、皆は知らずして、仏者も道者も、儒道も神道も、此のマテリヤヒリマと云う物が、初めもなくして有り、是が力ばかりにて万物は出来るかと心得、或いは仏性と号し、或いは渾沌の一気とも云い、又は陰陽とも名付けて、其れより外に主を立てず。是が諸宗の迷いの根源にて侍り。よしや、名をば仏性とも陰陽とも、一気とも云わば云え、其れは苦しからず。是を身ずから独り有ると思う。又、独り和合して物となり思う。其の主を知らぬが迷いにてそうろう。喩えば此のマテリヤヒリマは、一本の竹にし玉え。此の竹は、初めもなくありし物に非ず。其の如く、マテリヤヒリマも初めあり。又は扇子の骨に成りとも、すだれに成りともなるべき下地は、此の竹に備わって侍りとも、独りは骨にも、すだれにもなること叶わず。其の巧み(=職人)の力による如く、マテリヤヒリマも、物の下地となるべき徳はあれども、無心無智の[ものなれば、Ds]功によらずして和合することも、屈伸来往もならぬことにてそうろう。此の有智有徳の作者、Dsをわきまえざる程は、万に不審のみにして、心晴るる事は、侍るべからず。此の主なくて叶わぬ事をわきまえ玉え。

 妙秀。誠に諸宗は、今の所に迷いそうろう。此の智恵、[]徳の主が在まさでは叶うべき事に非ず。二世の安楽の願いの掛け所を見知りまいらせたる事の嬉しさ、身を砕き、骨を粉にしえも、未だ酬いるに足らぬ御身の御恩にてそうろう。とてもの事に(=ことのついでに)、扶り物(=たすかりもの:救われる者)は何にて有ると云う理りをも教え玉え。

 

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