幽貞。此方(=こなた)の教えも申すべけれども、先ず、今まで御身は後の世の事を何と思い玉い、知識達(=仏僧たち)よりは又、何と聞き玉いけるぞ。

 妙秀。其の事にてそうろう。わらわなどが思うようは別ちには侍らず。唯、念仏を申せば後生を扶かるとのみにて、何ものがいき残り、何たるすがたにて有りなんと云う義も知らずそうろう。但し、知識達の教えを受け候えば、後生に地獄の、極楽のなどと云うことを立つるばかりにて、しばらく方便(=真実の教えに導くための仮の教え)の為にてこそあれ、何者が生き残りて苦楽を受くべきぞ。人の身は、地水火風空の五大にて、いけるかぎりは此の五つの物和合し、死の後、焼けば灰と成り、埋めば土と成りて、水は水に帰り、火に火に帰りて分散しそうらえば、何者が生き残りて苦楽を受くる吾と云うもののあらんやと云われそうろう時は、後世に生き残る者は有るまじきとこそ思いそうらへ。

 幽貞。仏法の極め、何れも其の分にてそうろう。是は甚だしき迷いにて侍り。其れは畜類、鳥類などの上にこそ当たることにて候え。人間には後の世まで生くる命がそうろうぞ。

 妙秀。人畜を隔て玉うこそ尚心得難くそうらえ。仏法には五十二類(=釈尊入滅の時、集まり悲しんだ五十二種の鳥獣虫魚)も我が同性と見て、蠢動含霊(=しゅんどうがんれい:うごめき動くものはすべて霊を含むということ)に至るまでも、今日のわらわに隔てなし、人畜を各別に宣うわ何としたることにてそうろうぞ。

 幽貞。去ればとよ、左様に何もかも唯一に見るは迷いにてそうろう。御身もはや、天地万像の御作者、Dsが在ますことをば心得玉えば、其の作の物の類々を分けて申すべし。先ず、今、現に目に見ゆる所の万物は事広く候えども、キリシタンの経書の辞に略して申せば、四つの類をば出でず。一には、セル(ser存在)の類、二には、アニマベゼタチイハ(anima vegetativa)の類、三には、アニマセンシチハ(aima sensitiva)の類、四には、アニマラショナル(anima racional)を具セル者にてそうろう。先ず、セルの類とは、天地、日月星を先として、金石などの体ばかり有りて、生成する性の備わらぬ物をば、皆セルの類と申し侍り。次に、アニマベゼノタチイハの類と云うは、生成する性ばかりの備わりたる非情、草木などの類。さて又、アニマセンシチイハの類と云うは、知覚を具せる物の事。但し、知覚と申せども、理を知るには非ず。飢えては食を求め、渇っしては飲をなし、寒熱、痛痒(=つうよう:痛みと痒み)等を知り、おぼゆる(=覚ゆる)物、是即ち、禽獣、虫魚の類にて侍り。而して(=しかして)、アニマラショナルを具せる者とは、飢渇(=きかつ)をおぼえ、寒暑を知る上に、物の理りを知り、是非を論ずる智恵を具せる物、是即ち、人倫(=人間)にて侍り。去れば、此の四つの物のうち、アニマラショナルを具せる人倫より外は、何れも後生と申すこと侍らず。

 

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