妙秀。御言葉半ばなれども、しばらく聞き玉え。此方(=こなた)の先徳(=せんどく:先達・先哲)の説には、天地同根、万物一体と申して、二つもなく三つもなき唯一理の物を、四類に分け玉うこと。別しては(=特に)、人間にかぎって後生ありと宣うは奈何(=如何)なる謂われによっての事にて侍るぞ。

 幽貞。わらわが申す所に、其の謂れを云えとおおせそうろうや。本より其の理なくば、何にして申し侍らん。先ず其の方に万の物を一体と宣うこそ(わらわは)聞こえ侍らね。如何に古人が天地同根、万物一体と云いたる句の有ればとて、其れが道理になるべき謂れなし。何とて左様には申したりと有る理を宣え。

 妙秀。其の理と申すは、あろうる(=あらゆる)物は、何れも事理(=現象・事象と本体)の二つが有る事にてそうろ。事とは、喩えば外に「柳は緑、花は紅(=くれない)(=自然のあるがままの姿・事象:『禅林類聚』)と題し、松は直ぐ(=直立)、棘(=おどろ:いばら)はまがれる当体を申す。理とは、木を破りて(=わりて)見れば、緑とも紅とも見えはせで、内に籠る所の性を申す也。此の故に事は相(=外面)に通じ、理は性(=内面)に同じき物にて侍り。去れば、此の二つを物に喩えて申さば、一筒の水は理性、此の水が凝りて雪や氷りと成りたるをば、相と心得玉え。事相は「雪や氷と隔つれど(=外見上ちがうけれど)、解ければ同じ谷川の水」(御伽草子『天狗の内裏』など)にて侍り。其の如く、万法も、かりに事相は隔たり、鳥は獣に非ず、草は木にあらざれども、事相が滅すれば理性に帰す。此の所をば一如実相(=いちにょじっそう)とも申して、隔てはそうらわず。儒道などにも性気(=せいき)の二つを立て、性には隔てなけれども、気に取っては正通偏塞の四等あるによて、其の和合の加減を以て、或いは人とも成り、馬とも、牛とも成り。同じ人に取っても、鈍利の不同あるは、性の異なる謂れに非ず。気質の別なるが故なり。堯舜(=ぎょうしゅん:伝説的名君)の仁、跖蹻(=せっきょう:盗跖と荘蹻という二人の伝説的大泥棒)が欲も、性の別なる故に非ず、気質の殊なるが為なり。何しに物に各々(=かくかく)、別々の性が侍らんや。一性なるが故に、外の事相にはかかわらず、性に依りて、天地同根、万物一体とは申す也。

 幽貞。さては物には事理の二つが有りて、事の方は、かりにしばらく雪や氷と隔てつれども、解ければ同じ流れの水となるが如く、万法の理の一つなるによて、万物都て(=すべて)一体也。儒道などにも、性には隔てを謂わずして、気の上にかわりありと云うと(汝は)宣うか。其れは、先に申しつる如く、天地万物に一体の作者が在ます事を知らぬ上よりの云い事にてそうろう。御身ははや、万物の作者が在ます事をわきまえ玉えば、加様の御不審は有るべき事にてはさぶらわず。其の上、今の事計りも(=ばかりも)理を尽くしたる云い様にては侍らず。其の故は、万物の事相は緑紅と分かるれども、滅すれば皆一如実相に帰すれば万物一体よ、とならば、生滅有る物をば、しばらく先ず、其の分にもし玉え。事相のくちくさる(=朽ち腐る)事なき物は、如何に。天の体を初め、月日、是等は滅する物に非ず。然れば、其の相は、いつまでも、天[は天]、月は月、日は日、星は星にして一体に非ず。又、地水火風の四大も、地はいつも地、乃至風はいつも風にして滅する物に非ざれば、此の四つの物は一体に非ず。如何に惑乱したる者なればとて、水を以て火と一体ど云わんは、けしからぬ(=甚だしく)物狂いの至りなるべし。惣じて物をば其の作用を以って性体の替りを知る物にて侍るぞ。火は物をかわかし、水はうるおし(=潤し)、風は動き、地は堅き用のあるは、其の性体が別ちなるが為也。事相を以て替わる用に非ず。喩えば、金を以て鳥を作り、魚を造りて水に入れんに、姿形は替われども、其の性体は、同じかねなるが故に、魚も沈み、鳥もしずんで、其の用は、隔てなかるべし。然るに、万物の上を見れば、鱗ある物は潜り、羽有る物は翔り(=かけり)、此の用の別ちなる事なり。形の故に非ず。ホルマ(forma形相『ドチリナキリシタン』)とて其の性体の替わる故也。何ぞ理性を一つと云わん。事相も亦(=また)、松はおどろ(=棘:いばら)に非ず。棘(=おどろ)は松に別ちなれば、事理ともに各(=それぞれ)別なり。万物一体と云うは理不尽なる事にて侍るぞ。是は、仏の説き置かるれば信ぜで叶わず、祖師の言句なれば真なるべしなどと思いて、理を極めざるは、皆昔かたぎ(=形義:習慣・気風)の鈍(=愚か)な事にて侍る。喩えば、闇路をゆかんに、吾が持ちたる続松(=松明)の火をふり立て歩まずして、其れを打ち置き、五町も十町もさきに行きたる人の火の光を頼みて、たどるたどる(=たどたどしく)行かば、あったら物(=もったいない物)にては侍るまじきや。その如く、仏祖の角(=斯くの如く)云いたれば、其れは違うまじなど()云いて、吾が智恵分別をばつかわで、人の言葉を頼みとするは、あたら(=もったいない)智恵にてそうろう。天地同根、万物一体と云いたればとて、其れを真になし玉いそ。又、気に正通偏塞の四等を立て、性は人畜同じ物と云うも、今申しつる理を以て、そでなき事(=そうでない事)が聞こえてそうろう(=理解されます)。物の替りめ(=違い)は外に非ず。唯、性体(forma)による事にて侍り。喩えば、殿達の重宝とし玉う刀わきざし(=脇差)、明作(=名作)の物、吉光(=粟田口吉光)、政宗(=岡崎正宗)などは、そらざや(=白鞘)の内に入りても其の功能はおとらず。又初めはぎらめき(=きらめき)、奈良刀とやらんのつれ(=類)は、金作り(=こがねづくり)のさやにさして[]明作(=名作)の物とはならず。去れば其の性は一つなれども、気質によて物には尊さ、卑しさの替り(=違い)ありと云えば、奈良刀もこがね作りのさやに入れれば明作となり、正宗も吉光もしらざや、はげざや(=禿鞘)にさしては奈良刀と成ると云う程の事にて侍り。堯舜(=ぎょうしゅん)の仁性も、犬えのこ(=狗子:子犬)の受けたる気質に合わせば、犬えのことなり、犬えのこの愚魯の性も、堯舜の受けたりし気質を受けば、堯舜となるべしと云いつれなる云い様は、余りなる事、誠に堯舜にも面目を失わせまいらする心ろにてそうろう。加様(=斯様)の迷いは皆、或いは空生空滅と見るか、或いは陰陽のみを万物の根源と思うが故に起こりそうろう。天地万像の御作者一体が在まして、人は人、獣は獣と、其の性命を各別に(=各々別に)し玉うが故に、万物に替り(=違い)がある事にて侍り。万物一体と云う論儀をばやめ玉え。

 妙秀。「仰げば弥よ(=いよいよ)高く、鑽れば(=きれば:錐で穿てば)弥よ堅し」(『論語』子罕篇)とは此のキリシタンの教えにて侍るべし。扨て扨て(=さてさて)、是程まで細かに糸筋を分くる計りに理のたち行く事の不思義さよ。去れば、はや、余の物にはあらぬ後生の人間のみに有る謂れを委しく(=くわしく)語り玉え。

 幽貞。よ(=余)にはあらぬ後生の、人間のみに有ると云う謂れも、今の如く、先ず、万物の類々が、別々なることを能く定むれば、自(=おの)ずから聞こえそうろう(=理解されます)。後生とは已に現在の命の終りて後に、又たもつ所の性を云えば、上に申せし四つの類の内、セル類とて、其の色体ばかりある月日星、金石などの様なる物は命なければ、死すると云う事もなし。此の故に、後生のあるべき様なし。次に、アニマベゼタチイハの類は、生成する性はあれども、是又非情無心の草木なれば、枯るるとても、雨露のめぐみ、水土の湿気を受けぬまでにてこそあれ、後生の沙汰あるべき様なし。次に、アニマセ[]シチイイハの類、鳥類、畜類は知覚とて、物を知り、おぼゆる性のあれば、是には後生のあるべきかと云うに、是にも後生なし。其の故は、物の性の品(=類または本質)をば、上に申しつる様に、用を以て量り知る事にて侍り。去れば、此の鳥獣、虫けらの類は、其の知覚する所の用を見れば、皆色体に当たる事より外はそうらわず。其れと申すは、飢えが来れば食を求め、渇きをおぼゆれば水により(=寄り)、ねぶり(=眠り)のきざせば眼を合わせ、つるみ(=交尾)すべき時節の至ればつるみす。巣をつくり、穴をほり、奔る(=はしる)も飛ぶも、鳴くも、ほうる(=吼える)も、皆是色身(=肉体)の用より外には何事ぞ。是等が性命は、身(=色身・肉体)によて有るに、此の色身は焼けば灰と成り、埋めば土と成りて、四大は本の四大に帰りて、後は牛にてはほえ(=吼え)、馬にてはいななき(=嘶き)し性はなく成りて、残るは地水風火ばかりなれば、彼らが上には後生の有るべき様なし。能く聞き玉え。仏法などには、ようよう此の性の位まで見付け、人をも其の内に入れて、死すれば後生はなきぞと云われ侍う。真に理不尽とは、かようの事にて侍るべし。仏法の色即是空、空即是色(『般若心経』)と云うは、此の事と心得玉え。

 妙秀。仏法は本より此の分にて侍るが、此の上に又、何物をキリシタンの教えには見付けて、左様には宣うぞ。

 幽貞。其の事にて侍う。此の上に人の具せるアニマラショナルと云う性命は、我は人(=他人)に非ず、人(=他人)は吾にあらず。各別(=各々別)にして、後世にも果てしなく生くる物にて侍り。道理の上より此の性命を見知る事は云うに及ばず、Dsより直に(=直接に)つげ玉得える伝えあるが故に、たしかに知る事にて侍り。先ず、其の道理とは、上に度々申しつる様に、用を以て生命の品を知れば、人のなつ所の用を見玉え。是にて後世までも生き残るべき性命を人は具せる事が見えそうろうべし。其の故は、今申しつる畜類、鳥類などが作用は、色身に当たる事より外はなきに、人間は此の上に今一つの用がそうろう。去れば用は独り有る物に非ず。その性体(forma)に依る事は、尋(=つね:常)の法にて侍り。人も飲食(=おんじき)をなし、起き臥しをし、夫婦の中にはまじわり有る事を先とし、皆、是等は用に侍り。此の要はいずくにすわる(=帰着する)ぞと見れば、此の身によることにてそうろう。然れば此の身は果てては此の用は有るべからず。今一重の用(=もう一つの用)とは、物の理を知り、仁義礼智信の理りを心に掛け、なからん跡(=死んだ後)の名を思う。後生には善所[]といのる事を先とし、是非善悪を論ずること、已下(=いげ:以下)は是又一つの用也。此の用の陶り(=すわり)所なる性体なかうて叶うべからず。此の性体は、人の身の内に有りて、目にも見えず、手にも取られず。是をアニ[]ラショナルと申し侍り。

 妙秀。いやいや。其の目にも見えず、手にも取られぬ性体の、此の身の中にありと宣うは聞こえず(=理解できない)。五常(=仁義礼智信)を守らんと思うも、後世菩提(=後世の正覚)の事を心にかくる(=掛ける)も、是非善悪を論ずるも、名を惜しむ事も、唯是、此の色体の用と見えたり。何しに又別ちに身の中に性体を尋ね玉うや。

 幽貞。実(=げ)にも、真の教えにあい玉わぬ程に、左様に思い玉うべし。さらば、又わらわは其方(=そなた)へ不審を申すべし。人の是非を糺し、義理をわけまうる用も、色体のわざ也と思い玉はば、鳥獣には此の態(=てい:状態)は何とてそうらわぬや。色体の所は人も畜類も同じ地水風火の四大也。姿形ちの別なるまでにて、此の用は替わるべからず。其の故は前にも喩えに申したる如く、同じ金にて作りたる物なれば、性体に替りなきがゆえに、姿形は魚と獣と別ちなれども、水に入りて見る時、沈む用に隔てなし。然るに、人間の後生を願い、名をおしむこと已下(=いげ:以下)の用の畜類になきは何としたる事にてそうろうや。

 妙秀。真に是は理りにて侍り。畜類、鳥獣になき用の、人間に限ってあれば、此の用の陶り所(=すわりどころ)なる性体、アニマラショナルとやらんの有るべをもわきめて侍り。但し此のアニマラショナルの色身より出でぬ(=肉体に由来しない)とある道理を尚も宣え。

 幽貞。アニマラショナルの有るべきとさえ弁え玉えば、色体より出でぬと云う事は明かにそうらえども、猶も(=なおも)其の理を申さば、此のアニマは身より出でぬが故に、身の望むことをも理に外れたる事なれば制して是をさせず。喩えば、如何に飢えに望みて(=臨みて)、身の方よりは食を望めども、服(=ぶく)すまじき所(=食べてはならない場合)、はずかしく思えば食せずして身の望みを止むるは、身より出でぬアニマの有るが為なり。余りの事(=どうにもならない事)に義理を思い、名をおしみては男はいやがる身に打死をさせ、腹背(=ふくはい)をきらする事も、アニマラショナルの身より出ぬ証拠にてそうらわずや。身より出でたる性命ならば、身に順わず(=したがわず)して叶うべからず。畢竟、色身は理を知る物にあらぬに、此のアニマラショナルは、理をわきまうるを以て、身よりは出でぬ証拠は、明かにそうろう。是は、人々が、母の胎内に、父の種子を受けて、色身の下地が調うれば、Dsより其の色身の中に作り籠め玉いて、是を色身の主人と定め玉い、此の道理に随って(=したがって)身を治めさせ玉うアニマラショナルなれば、後生までも生き残ると心得玉え。其の故は、身より出でぬ物なれば、身とつれて(=身と連れて:身と共に)亡ぶべき謂れなし。

 妙秀。アニマラショナルの身より出でぬ事も聞き得て侍り。身より出でぬ命(=性命)なれば、身とつれて(=連れて)こそはこそは亡びずとも、終には此のアニマも滅すべきや。

 幽貞。いや、いつまでも果つると云う事はそうらわず。其の故は、物の滅すると云うは、和合の相の上にあり。アニマラショナルは四大の和合いもあずからず。色相にも非ず。唯、スヒリツアルススタンシヤ(spiritual sustancia)とて、色形ちを離れたる理性なれば亡びず、失すべき様も侍らず。

 妙秀。流転輪廻と云う事はそうらわぬや。事はそうらわぬや。

 幽貞。流転輪廻と云う事もなき事にてそうろう。此の輪廻の沙汰も例のうそつきの尺(=釈)迦殿が天地の主が在まして、人間の上の生死禍福を思し召すままに計らい玉う事をば知らざるが故に、今現在の人の上の貧ぶく(=福)貴賤なども、前業の所感と思いしより、同じく又、業によて五道六道(=地獄・餓鬼・畜生・人間・天上の五道と修羅)に輪廻すると云う事をも云い出せる物なり。輪廻と云う事のなき証拠は、今、御身とわらわが上にも、はやしれ(=知れ)そうろう。其の故は、御身もわらわも、前の生が有る物ならば、など今、前生には如何なる物にてありし、何なる(=如何なる)業を作りし故に加様(=斯様)の身と成りたりなど云う事を、などか知らでそうろうべき。其の上、たびたび申しつる如く、人の慮智分別は、外の姿形ちによる事にあらざれば、今世(=こんぜ)人にて、未来世に鳥とも獣とも成りて後も、其の智恵、分別はうする(=失する)事有るまじければ、鳥の中にも是非を論じ、獣の中にも善悪をわきまうる物がいくらもなくて叶うべからず。しかのみならず、人は現世の善悪によて、Dsが、来世に於いて、終わりなき所の賞罰に行い玉えば、善所に至りたる者は永劫不退の楽しみ[]楽しみ極まりて、二度び(=再び)此の界に生まれ来ると云う事もなく、悪所に落ちたる者も、未来永々に浮かぶ(=抜け出る)事なき苦にくるしみを受け重ね、再来すること叶わざれば、流転はしたくてもならぬ事にてそうろう。

 妙秀。嬉しくも加様に心静かに万ず不審を尋ねまいらせて、後の世の道を知りそうろう物から。今ははや畜類、鳥類にも人は替り(=異なり)、アニマラショナルとて、終らぬ性命を具したることをも、又輪廻と云うもなき道理を聞き得て侍れば、とてもの事に(=ことついでに)、其の善所、悪所は、いず[]ぞと云える事をも教え玉え。

 

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