幽貞。惣じて此の宗の教えには、理を以て決する事()、理を論ずるまでもなく、伝受の一通り(=いわゆる聖伝・使徒的伝承)にて澄む所がある事にて侍り。去れば、今まで申しつる理り、天地の主、Ds在ます事と、アニマラショナルとて、人には後生に生き残る性命ありと云う事などは、理を以て決せずして叶わず。又此のDsは、憲法(=正義・公正)の源にて在ますと云うよりして、善人には賞を行い玉い、悪人をば罰し玉わで叶わず。然るに今、現在の人の体(=有り様)を見れば、すぐなる(=正直な者)が苦しみ、邪なるが楽しみ栄うるも多ければ、此の善悪の御賞罰は、未来世になくて叶わずと云う所までも理を以て徹する事にてそうろう。是より先き、其の善所はいずく、悪所はいずくにありと云う事などは、道理を以て云うまでもなく、そこそこと(=あれこれの場所にあると)伝受せらるるまでにて侍り。但し、論談に及ばぬとても理に外れたる事には侍らず。先ず、善所と云うは、Dsが天地を作り玉いしに、天の重なりを十一天に作り玉い、十天までには其の順環を定め玉い、十一天目をば、ハライソ(paraiso)と名付け玉えり。此の天は順環とて、めくる事もなく、其の所には、安如(=アンジョanjo)と云いて天人の数々をいくらともなく作り置き玉いて、御身の近臣の如くにし玉えり。茲に、天人と云えばとて、仏教などに云う、五衰(=涅槃経によると天人が死ぬ前に示す五つの衰え)の苦しみある色形ち備わりたりと云うようなる体とは思い玉うな。此の安如と云えるは、人間のアニマの如く、色形ちを離れたるスヒリツ(spiritu)の体にて侍り。又、ハライソと云うは、日本の言葉にならば極楽と云う心にて侍り。人のアニマも扶かると云うは、此の所に至りて、彼の安如と同じ楽しみを受くる点にてそうろう。

 妙秀。ハライソとて極楽は天の上にありと宣うや。是は不審にそうろう。其の故は、仏説にも天の沙汰をせられて侍るが(=仏説における天は、六道の天上界)、是は不退(=永遠)の所に非ず。因果経(=過去現在因果経)には、「此の諸(=諸々)の天子は、もと少善を修して、天楽を受くる事を得たり。果報正に尽きんとする時、大苦悩を生じて三悪道(=六道の内の地獄・餓鬼・畜生)に堕す」と見えて侍れば、天上は真実の楽しみの受け所にはあるまじきとこそ思いそうらえ。

 幽貞。いやいや。妙秀、聞き玉え。尺(=釈)迦の経のたわこと(=戯言)に、此のキリシタンの教えを引き合わせて、な計り玉いそ。尺迦[]経に天所を厭うことは、此の初め(=本書上巻)に申したる様に、欲界、色界、無色界とて、曾てなき事を作り立て、是を三界と名付け、経(『法華経』譬喩品)にも「三界(=三千大千世界・全宇宙)は安きこと無し、なお火宅(=燃えている家)の如し」と説きたるにより発(=おこ)れり。去れば、三界の第一なる欲界の須弥(=須弥山)さえも、前に申しつる如くなき事なれば、色界の四禅天(=禅定の四つの境地)も、無色界の四空所(無色界の四つの境地)も、皆、虚空(=大空)の丈尺(=寸法・長さ)にして、有る事なし。然れば、此の天に至る者は、終には堕落すと云えるも、皆、云いたきままのたわこと(=戯言)にて侍りと心得玉え。其の上、キリシタンの教えに、天上にハライソと云うは、尺迦の経に云うつれ(=類)の、三界の沙汰に非ず。あの今、上に見ゆる月日星の備わる蒼々として青き天の、重々ある(重なり重なった)十一天めにてそうろう。惣じて尺迦は、此の空に天の体(=天体)がある事をば知らで、月日星は須弥の半ばを、風に乗りて旋り(=めぐり)、空の青きをば、須弥の南で、ばら(=波羅)吠瑠璃(=ばいるり:セイロンの猫眼石)とて青き玉なるが、其の色、虚空にうつろうて(=映って)青く見ゆると云いつれの事なれば、中々、論ずるに足らぬ片腹痛き事にて侍り。加様のうつけたる(=馬鹿げた)沙汰に、此の宗の教えを一つには(=同一であるとは)、な思い玉いそ。キリシタンのハライソと云う、楽しみの極め所なる天上には、一度び至りてよりは、二度び(=再び)退く事なし。其の所の結構(=立派で華麗な構え)は、たくらべて(=他と比べて)云うべき事もなし。七宝荘厳(=七つの宝石で荘厳された極楽)と云うも、猶、是の世界の云い事なれば、ハライソの結構に及ばず。今、此の身にては思いも計られれぬ霊光かがやき、異香薫じて(=珍しい香りが香って)、心もいさましく(=勇ましく)飛び立つばかりなるべき上に、果てしなく此の安楽をとげんと(=遂げんと)思わん時の楽しみは、是より(=こちらから)計るべき事に侍らず。直にかしこに至りてDsを排し、安如を友とせん時こそ、よく知りそうろうべけれ。御身も、此の教えに順い玉わば、彼所に至り玉うべきこと、疑いなし。

 妙秀。誠に、仏法に云う、天上の沙汰はなんでもなきことを弥よ(=いよいよ)聞き得て侍り。有難や、此のキリシタンの教えにあいて、真の楽しみの所、天上のハライソの事をも心得まいらする事のうれしさよ。さて、インヘルノとやら仰せそうろう地獄は、何として、いずくに侍るや。

 幽貞。其の事にてそうろ。インヘルノと云う、悪人の後世の苦しみを受くべき所は、此の地大(=大地のこと)の真ん中にある事にて侍り。其の起こりを申せば、Dsが、彼安如と申せし天人を御身の近臣の心ろに(=心積もり)、此の天上に数かぎりもあらぬばかりに作り置き玉い、飛行自在、融通無碍の徳を先として、此の肉眼には見ることを得ざる嬋娟端正(=せんけんたんじょう:容姿端麗)の霊徳を与え玉い、しこうして(=而して)Ds上一人(=かみいにちん)の位を望むべからずとの一つの禁戒を、此れ等の上に定め玉いしに、彼安如の内に、ルシヘル(Lucifer開けの明星・金星)と云いし者が、己れが霊徳の勝れたるに奢って(=ほこって:誇って)、天恩を忘れ、Dsの御位にも成りなんと云う高慢を発し(=おこし)、同輩の安如にも勧めしに、彼数かぎりもあらぬ内より少分(=少しの部分)は、ルシヘルが勧めに順い、Dsをそむき奉らんとせし時、即ち、Dsは、御罰を与え玉いて、ルシヘルを初め、くみせん安如をば悉く天上より追い下し玉い、此の地中に獄所を定めさせられ、悪寒、毒熱の責めを以て、くるしめ玉う事は、其の時より今に終わらず。又いつまでも此の苦しみを責められそうろうを天狗(=悪魔)とは申す也。地獄も此の謂れによて出きてそうろう。人も世界にいける限り、Dsの御教えにも順わず、悪逆無道なる者は、此の所に落ちて、天狗と同じ苦しみに行われそうろう。此の所に堕ちたる者も二度(=再び)浮かぶ世と云うことなし。此の処の苦しみの深き事も、ハライソの楽しみの言葉に述べられぬ如く、いわるる事には侍らず。唯、ありとせあらうる程の(=ありとあらゆる程の)わろき事の色品、苦しみの数々、終わりもなく有る所と心得玉え。此の所に至らぬ為には、キリシタンに成り玉い、其の教えに順い玉わん事、専らにて侍り(=もっとも大切なことでござます)。又、次で(=ついで)ながら聞き置き玉え。時として、あの神、此の仏に神変がましき事(=不可思議な事)の有りたりなど云うことは、此の天狗が、天上にて高慢の素懐(=そかい:かねてからの願い)をとげん事を思いしかども、叶わざる故に、責めて、下界にて人になりとも敬わればやと思い、木仏、石仏、宮、やしろ(=社)の内にたくして(=託して)、怪異(=けい)の相(=姿)を顕わせば、人はおろかなる故に、加様の謂れをば知らずして、誠に神仏のなす事かと思い、是をあおぎ貴ぶにそうろう。愛岩(=愛宕の誤記)の地蔵など云うは、皆々、天狗のただ中にてそうろうぞ。其の分を、心得玉え。

 

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