オリゲネス

マタイによる福音注解

第10巻

( )は訳者による挿入

最終更新日13/01/15


 

 「そのとき、彼は諸々の群衆を帰し、彼の家の中に行った。そして彼の弟子たちが、彼の許に来て言った:『畑の諸々の毒麦のたとえ話を我々に話してください』[1]」。

 イエスが諸々の群衆と一緒にいるとき、彼は、自分の家にいない。なぜなら諸々の群衆は家の外にいるからである[2]。そして、彼の人類愛の業は、家を後に残し、彼の方へ来ることのできない人たちの方へ行くことである[3]。しかし彼は、諸々の群衆と諸々のたとえ話の内に十分に対話し、彼らを帰し、自分自身の家の中に行った。家の中で彼の弟子たちが彼に近づいた。彼らは、彼によって帰された人たちとともに留まらなかった。そして、より真正にイエスの話を聞く人たちだけが、まず彼について行き、次に彼の居場所について尋ね、その居場所を見ることを許された。そして彼らは行って(それを)見、「彼の許に」留まる――すべて(の弟子たち)が「その日[4]」に、しかし彼らの内の幾人かはもっと後で。それらのことは、『ヨハネによる福音』の中で次の諸々の言葉を通して示されていると私は考える:すなわち、「翌日、再び、ヨハネと、彼の弟子たちの中の二人が立っていた[5]」とある。さらに、イエスとともに歩み、彼の家を見ることを許された人たちの中で際立った者が弟子にもなることを証明するために、彼らに次の言葉が向けられている:「シモン・ペトロの兄弟アンデレが、ヨハネから聞き、彼に従った二人の弟子の一人だった[6]」と。

 したがって我々も、いやしくも諸々の群衆のように――イエスは彼らを嘉永して、「家の中に」行った――イエスに聞かず、諸々の群衆よりも何か秀でたものを身につけて、イエスの家の者となるべきである。それは、「家の中に」行った彼に、我々が彼の弟子として近づき、近づいた後、たとえ話の解説ついて――諸々の毒麦のたとえ話であれ、何のたとえ話であれ――(尋ねるのに)相応しい者になるためである。しかし、イエスの家がどのような事柄の指標となっているかがもっと正確に理解されるために、イエスの家について言われる事柄や、その家の中で彼によって言われた事柄や行われた事柄を、人は諸々の福音からことごとく集めるべきである。なぜなら、それらの事柄が突き合わされることそれ自体が、この読解に注意する人に次のことを確信させるからである:すなわち、福音の諸々の文字は、或る人たちが考えるように単純なだけでない。むしろそれらは、単純な人たちのために経綸に従って単純なものとして起こったが、それらをもっと透徹に聞こうと望むとともにまたそうできる人たちにとっては、(それらの中に)神の言葉に相応しい諸々の賢明な事柄が隠されている。



[1] Mt.13,36.

[2] Cf.Entretien avec Heraclide 15:「外と家の中に入ることとは、神秘的な次元に属している。・・・ 罪を犯す者は誰でも、外にいる。それゆえ外の人たちには諸々のたとえ話で話さなければならない――彼らが外を離れ内部に入るために。家の中に入ることは神秘的な次元に属している。イエスの家の中に入りなさい、彼の真の弟子よ」。

[3] 「人類愛」は、クレメンスが弟子たちにお気に入りの概念でもある(盗用厳禁)Cf.Clemens Alex.,Paedag.I,8; Strom.II,6.

[4] Jn.1,39.

[5] Jn.1,35.

[6] Jn.1,40.

 

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