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11 「また、諸々の天の国は、海に投げ込まれた引き網に類比される[1]」。

諸々の似絵と諸々の彫像における諸々の類似は、それらが作られる元となった諸々の対象との全面的な類似ではない。たとえば、一枚の平板に鑞で書かれたがい似絵は、外見上、色彩との類似を持ているが、もはや諸々の窪みや諸々の突起を保っておらず、それらの外観だけを保っている。また、諸々の彫像の制作は、諸々の窪みと諸々の突起に関わる類似を保つことを試みるが、色彩に関わる諸々の類似を保とうとしない。鑞制の封印が作られる場合には、それは、両者を――私は、色彩に関する諸々の類似と諸々の凹凸に関する諸々の類似のことを言っている――保とうと試みるが、内奥にある諸々の事柄の似像ではない。同様にあなたは、次のように理解していただきたい。福音に見られる諸々の類比においても、何らかの物に類比される「諸々の天の国」も、その類比の対象に属するすべての事柄に渡って類比されるのではなく、受け取られた言葉が必要とする諸々の事柄の幾つかに関して類比される。

ところで、「諸々の天の国は、海に投げ込まれた引き網に類比される[2]」という言葉は、その言葉によって次のことを証明する或る人たちが考えるようなものではない。彼らによると、引き網の下に入った悪人たちと義人たちには様々な本性が存在する。その結果、「一切の種類から集める(引き網)[3]」という言葉によって義人たちの多くの異なる本性があり、同様に悪人たちも同様であると思い込むに至る。もちろん、自由意志を表明して、罪人たちを非難し、実直な者たちを歓迎する(聖なる)すべての文書は、そのような解釈に反対する。実際、非難が、諸々の下劣な種類に属する者たちに――そのような者たちの本性のゆえに――伴い、諸々の上等な種類に属する者たちに賞賛が伴うのは正当なことではなかろう。なぜなら、諸々の下劣な魚と諸々の美しい魚の原因は、魚たちの諸々の魂にかかるのでなく、み言葉がご存じの事柄にかかっているからである。実に「神が、大きな海獣たちと、生ける這う者たち――諸々の水はそれらの諸々の種類に従ってそれらを生み出した――の一切の魂とを作った[4]」とき、み言葉は、「諸々の水は、生ける諸々の魂たちを持つ這うものたちを生み出しなさい[5]」と言っていた。したがってそこで「諸々の水は、生ける這う者たちの一切の魂を、それらの種類に従って産み出した」が、その原因は魂にかかるのではない。しかしながら我々は、(ここで)言われている「諸々の器[6]」に値する美しい諸々の種類であることの原因であり、「外に投げられる」値する腐った諸々の種類であることの原因である。なぜなら邪悪の原因は我々における本性ではなく、悪行をする意図的な選択的意志だからである。同様に、許容しないような本性が、正義の原因なのでもない。我々が受け入れたみ言葉が義人たちを準備する[7]。実際、海生動物たちの諸々の種類が――たとえば魚たちにおける諸々の種類が――諸々の下劣な種類から諸々の上等な種類へと変わったり、あるいは諸々のより優れた種類から諸々のより劣った種類へと変わるのを見ることはできない。ところが、人間たちにおける義人たちや悪人たちは、悪徳から徳に向かったり、徳への進歩から悪徳の流れへと解き放たれるのを観察することができる。

 それゆえ、『エゼキエル』においても、無法から諸々の神的な掟の遵守へと転向する人について、次のようなことが書かれている:「無法者が、自分の行ったすべての無法から離れたなら」云々から、「彼が邪悪の道から離れ、彼が生きること」に至るまで[8]。また、徳への前進から悪徳の流れへと解き放たれる人について、次のようなことが書かれている:「義人が自分の正義から離れ、不正を行うことにおいて」云々から、「彼は、自分の犯した諸々の罪の中で死ぬだろう」に至るまで[9]。とにかく、引き網に関するたとえ話から諸々の本性を導入する者たちは、我々に言うべきである:「自分の行ったすべての無法から」後になった離れ、主の「すべての掟」を遵守し、「正義と哀れみ[10]」を行う「無法者」は、無法者だったとき、どのような本性に属していたか。もちろん賞賛すべき本性に属していたのではない。しかし、もしも彼が非難すべき本性に属していたなら、彼が「自分の行ったすべての無法から」離れるとき、どのような本性に属していると適切に言えようか。もしも彼が以前の諸々の事柄のゆえに下劣な本性に属しているなら、どうやって彼はより善き諸々の事柄の方へ変わったのか。もしも彼が、後の諸々の事柄のゆえに上等な本性に属していたなら、どうして上等な本性に属している彼が無法者になったのか。あなたは、「自分の正義から」離れ、「すべての無法に従って不正」を行う義人についても、同様の困難に出会うだろう。なぜなら彼は、正義から離れる前は、諸々の義の業の内にいたのであって、下劣な本性に属していなかったからである。実に下劣な本性が、正義の内に生じるわけがない。なぜなら邪悪な木――悪――は、諸々の善い身を結ぶことができないからである[11]。他方で、彼が上等で不変の本性に属しているなら、義人として振る舞った後で、「自分の正義から」離れて、「自分の行ったすべての不法に従って不正を行う」ことへと向かうこともなかろう。



[1] Mt.13,47.

[2] Mt.13,47.

[3] Mt.13,47.

[4] Cf.Gn.1,20.

[5] Cf.Gn.1,20.

[6] Mt.13,48.

[7] Cf.Mc.4,20.

[8] Ez.18,21.

[9] Ez.18,24.

[10] Ez.18,21.

[11] Cf.Mt.7,18.

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