13 ところが、或る人たちが考えていること――彼らは、キリストにおいて救われた人間たちの方が、善いみ使いたちよりも優れていると考えている――は、それらの事柄と一致しない。いったいどうして、善いみ使いたちによって「諸々の器[1]」の中に投げ込まれた者たちが、「諸々の器」の中に投げ入れる者たちに比肩され得るだろうか。なぜなら投げ込まれる者たちは、投げ込む者たちの権能の下に置かれているからである。もちろん我々は、それらの事柄を言うからといって、そのような管理を委ねられていない或るみ使いたち――すべてのみ使いたちではない――よりも、キリストにおいて救われる人間たちの方が秀でていることを知らないわけではない。なぜなら我々は、「み使いたちがはそれらの事柄を身をかがめて傾聴したいと切望している[2]」という言葉――ここでは「すべてのみ使いたち」とは言われていない――を読むからである。また我々は、「我々はみ使いたちを裁く[3]」という言葉――ここでは、「すべてのみ使いたちを」とは言われていない――を知っている。

 「引き網」と「引き網の下」にいる者たちに関して以上の事柄を書き記した。しかし、「代の終わり」に至るまで、しかも、「み使いたちが邪悪な者たちを義人たちのただ中から追放するために来る[4]」までは、「すべての種類に属する邪悪な者たちさえ引き網の下[5]」にいないと主張する人は、どうやら()文書を理解しておらず、諸々の不可能なことを望んでいるように見える。それゆえ、「邪悪な者たちが義人たちのただ中から追放される――そのために送り出されるみ使いたちによって[6]」――まで、我々の諸々の集団が邪悪な者たちに満ちているのを見るとしても、我々は驚かないようにしよう。しかし願わくは、「火のかまどに投げ込まれる[7]」彼らが、義人たちよりも多くないように。

 ところで我々は始めに次のように述べた[8]:すなわち、諸々のたとえ話と諸々の類比は、たとえられている事柄あるいは類比されている事柄のすべてに渡って採用されるものではなく、幾つかの事柄について採用されると。そこで、さらに次のことも、以下に述べる諸々の事柄から基礎づけられねばならない:すなわち、魚たちについて、彼らの命に関する限り、引き網の下で見つかることは、彼らにとって何かしら不運なこととして起こる。なぜなら彼らは、彼らにとって自然本性に即した命を奪われるからであり、「諸々の器の中に」投げ込まれようが、「外に」投げ捨てられようが、いわば魚たちの内にある命を失うことよりも何かしらひどい災難を被らないからである。他方で、たとえ話が話題にした事柄に関して言えば、善いものたちとともに「諸々の器の中に」投げ込まれるために引き網の下に入らず、海の中にいることの方が不運である[9]。同様に、邪悪な魚たちは、「外に」投げ出され、捨てられる。他方、目下の類比に従えば、邪悪なものたちは「火のかまどの中に」投げ入れられる――それは、かまどに関して『エゼキエル書』の中で言われている諸々の事柄が、彼らにも及ぶためである:「そして主の言葉が私に臨んで言った:「人間の子よ、見よ。イスラエルの家のすべての人は、私にとって、青銅と鉄、云々の混合物になった[10]」から、「それゆえあなた方は、主なる私が私の憤りをあなた方に注ぎだしたことを知ることになろう[11]」と。



[1] Mt.13,48.

[2] 1P.1,12.

[3] 1Co.6,3.

[4] Mt.13,49.

[5] Mt.13,47.

[6] Mt.13,49.

[7] Mt.13,50.

[8] 『同注解』第10巻第11章を参照せよ。

[9] 『エレミア書第16講話』(拙訳)参照:「引き網によって捕らえられた者は、罪に死に、神から命をもらいます」。

[10] Ez.22,17-18.

[11] Ez.22,22.

 

次へ