盗用厳禁

14 「あなた方は、それらすべての事柄を理解したか。彼らは、『はい』と言った[1]」。

人間たちの諸々の心の中にある数々の事柄を知っているキリスト・イエスは――それについて福音の中でヨハネも言っているように[2]――、知らないので尋ねるのでなく、ひとたび人間を取ったからには[3]、人間に属するすべてのものを利用する。それらの所属物の一つが尋ねることである。さらに、救い主がそれをしても驚くべきことではない。なぜなら万物の神も――「あたかも人が自分の子の振りをするかのように[4]」――人間の振りをして質問し、たとえば、「アダム、お前はどこにいる[5]」とか、「あなたの息子アベルはどこにいる[6]」と聞く。しかし、人によっては、この箇所を曲解し、「あなた方は理解した」という言葉を、疑問型で言われたのでなく、肯定型で言われたと言うだろう。そしてその人は、弟子たちもイエスの断定を承認して、彼に「はい」と答えていると言うだろう。また、彼が尋ねていようが、断定していようが、「それら」という指示語だけでなく、「すべて」というだけでなく、「それらすべての事柄」と言う言葉が言われる必要があった。

ところでイエスは、弟子たちが諸々の天の国のゆえに学者になったことを示しているように見える。しかし、『使徒たちの言行』の中で次のように言われていることが、それに対立するだろう:「彼らは、ペトロとヨハネの雄弁を観察し、彼らが無学な素人であることを把握して驚いた。そして彼らがイエスと一緒にいたことにも気づいた[7]」。そこで人は、それらの事柄に対して次のことを探求するだろう:もしも彼らが学者であるなら、どうして彼らは『言行』の中で「無学な素人たち」であると言われるのか;また、もしも彼らが「無学な素人たち」であるなら、どうして彼らは、極めて明瞭に「学者たち」であると救い主によって命名されているのかを。探求されている諸々の事柄に対して次のように言うことができよう:すべての人たちではなく、ペトロとヨハネが「無学な素人たち」であると『言行』の中で言われたのであって、弟子たちはもっとたくさんいて、すべての事柄を理解した彼らについて、「学者は皆」云々と言われているのだと[8]。あるいは、律法の文字通りの教えによって学んだ者は皆、学者であると命名される;その結果、無学な素人たちも、律法の文字の下に導かれれば[9]、何らかの意味で学者と言われると。しかし誰よりも――比喩的に語ることを知らず、諸々の文書の比喩(的意味)に属する諸々の事柄を理解せず、露骨な文字を信頼し、それを弁護する――素人たちにこそ、学者と呼ばれるということが当てはまる。

同じく人は、「律法学者たち[10]とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ[11]」という言葉も、文字以外のものをまったく何も知らないすべての人に言われているのだと解釈するだろう。ここであなたは次のことを探求するだろう:律法の学者は福音の学者と同じようなものなのか、また、(彼が)律法を読み聞き、「何らかの比喩的に語られた事柄がある[12]」と言うのと同じ仕方で福音を扱い、諸々の出来事に関する歴史を保持したまま、諸々の霊的な事柄に至る躓くことのない上昇の道を知る――その結果(彼には)、「邪悪の諸霊[13]」の諸々の学識ではなく、邪悪の諸霊(の諸々の学識)とは反対の善の諸霊(の諸々の学識)が存在するようになる――のかどうかを、あなたは探求するだろう。しかし人は、ユダヤ教から離れて、イエス・キリストの教会的な教えを受け入れるとき、より単純な事柄に関して「諸々の天の国」の学識を得る。さらに人が、諸々の()文書の文字を通した数々の手引きを受けて、「諸々の天の国」と名づけられた諸々の霊的な事柄へと昇るとき、より深い事柄に関して「諸々の天の国」の学識を得る。個々の思想――(探求の途上で)遭遇され、上昇的に理解され、提示され、証明された個々の思想――について、諸々の天の国を理解することができる。その結果、誤謬なき覚知に溢れかえる人は、上記のように証明された数多くの「諸々の天の国」の中にいることになる。同様にあなたは、「あなた方は回心しなさい。なぜなら諸々の天の国は近づいたからだ[14]」という言葉も象徴的に理解するだろう:(律法)学者たち、すなわち、単純な文字に安住する人たちは、そのような解釈から回心し、魂を内蔵するみ言葉であるイエス・キリストを通して、「諸々の天の国」と呼ばれる霊的な教えによって学識を得るというような意味で。それ故、イエス・キリスト、「元に神とともにあった」神であるみ言葉[15]が魂に宿らない限り、「諸々の天の国」はその魂の内には存在しない。しかし、人がみ言葉を迎え入れるところまで近づくとき、「諸々の天の国」はその人に近づく。

また、「諸々の天の国」と神の国とが、観念においてではないとしても、実体において同一であるとすれば、「神の国はあなた方の間にある[16]」と言われている人たちに対して、「諸々の天の国」は「あなた方の間にある」とも言われ得るのは明らかである――特に、文字から霊への回心のゆえに:なぜなら、人が「主の方に向き直れば」、文字の上にある「覆いは取り払われる」からであり、「主は霊だ」からである[17]。他方、真の意味における家長は自由で豊かである。彼が豊かなのは、文字の学習から「諸々の天の国」について、古い契約から引き出された「一切の言葉の中で」教えられるとともに、キリスト・イエスの新しい教えに関する「一切の覚知の中で」教えられたからである[18]。また彼は、その豊かさを自分の倉の中に隠し持っている――彼は、「諸々の天の国について学習した者[19]」として、「蛾も蝕まず、盗人たちも穴を開けて侵入しない天[20]」という倉の中に(その豊かさを)蓄えている。さらに、諸々の天の中に蓄える人に関して――我々が既に明らかにしたように――諸々の情念の一匹の「蛾」も、彼の霊的で天的な諸々の財産を侵すことができないことを真実に確定することができる。諸々の情念の蛾と私は言ったが、それは『箴言』から口実を得ている。その中で、「衣服の中の蛾と材木の中の虫けらと同じように、悲痛は人の心を痛める[21]」と書かれている。実際、虫けらと蛾は、諸々の天と諸々の霊的なものとの中に諸々の宝を持たない心を痛める。しかしもしも人が、それら(諸々の天と諸々の霊的なもの)の中に(諸々の宝を)蓄えるなら、「宝のあるところに、心もある[22]」わけであるから、その人は、諸々の天の中に心を持ち、その心のゆえに次のように言う:「たとえ部隊が私に対して整列しても、私の心は恐れない[23]」と。このように、救い主が「私よりも前に来た者は皆、盗人であり、強盗である[24]」と語った盗人たちも、諸々の天の中に蓄えられた諸物とそれらの諸物の傍らにいる心を穴を開けて奪うことができない。それゆえその心は次のように言う:「彼は私たちをキリストにおいて集め、諸々の天の内に座らせた[25]」、そして、「私たちの国は諸々の天の内に実在する[26]」と。



[1] Mt.13,51.

[2] Jn.2,24-25; cf.Mt.9,4; Mc.2,8; Lc.5,22.

[3] 「人性をとった」ということ。何度も言うが、訳者(朱門)は、直訳している。

[4] Dt.1,31.

[5] Gn.3,9.

[6] Gn.4,9.

[7] Ac.4,13.

[8] Cf.Mt.13,52.

[9] Cf.Ga.5,18.

[10] 本文中に見られる訳語「学者」と「律法学者」の原語は同じである。

[11] Mt.23,13.

[12] Ga.4,24.

[13] Ep.6,12; Rm.15,27; 1Co.2,14.

[14] Mt.4,17.

[15] Jn.1,2.

[16] Lc.17,21.

[17] Cf.2Co..3,16-17.

[18] Cf.1Co.1,5.

[19] Cf.Mt.13,52.

[20] Mt.6,20.

[21] Cf.Pr.25,20.

[22] Mt.6,21.

[23] Ps.26,3.

[24] Jn.10,8.

[25] Ep.2,6.

[26] Ph.3,20.

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