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15 しかし、「諸々の天の国の学識を得た学者は皆、自分の倉から諸々の新しい物と諸々の古い物を引き出す家長である人間に似ている[1]」のであるから、命題のいわゆる対偶に従えば、自分の倉から諸々の新しい物と諸々の古い物を引き出さない人は皆、諸々の天の国の学識を得た学者ではないことも明らかである。したがって、「読書と勧めと勧告[2]」に注意し、「主の律法の内に昼も夜も修練する[3]」ことを通して、我々の心の中で[4]、あらゆる方法で、諸々の福音と使徒の諸書簡と黙示から新しい諸々の託宣を集めるばかりでなく、「将来の諸々の善きこと影」を持つ律法[5]とそれら(の善きこと)に従って予言された諸々の預言からも古い諸々の託宣を集めるように努めるべきである。それらの託宣は、次のとき、集められるだろう:すなわち、我々が「読みかつ認識し[6]」、それらの(託宣の)を記憶に思い起こしつつ、「諸々の霊的な事柄を霊的な事柄と[7]」比較するとき;相互に無関係な事柄を比較するのでなく、何らかの類似性――同じことを意味する表現と概念と教えの類似性――を持った関係のある諸々の事柄を比較することによって。そうすることによって我々は、「二人ないし三人の口に基づいて」、あるいは、()文書からの「数々の証言」に基づいて、神の「すべての発言[8]」を確立し確定することができる。実にそれらの事柄を通して――力を尽くして神性を分割し、諸々の古い事柄から諸々の新しい事柄を切断する――人々を恥じ入らせるべきである。彼らは、(そうすることによって)、「自分の倉から諸々の新しい物と諸々の古い物を引き出す家長[9]」との類似性から遠く離れている。

 そして、ある人に似せられている人は、その似せられている(ある)人と異なっているのであるから、「諸々の天の国の学識を得た学者」は、「自分の倉から諸々の新しい物と諸々の古い物を引き出す家長[10]」に似せられているとともに、異なっている。家長に似せられた人は、その家長を模倣する者として、同じことを行おうと望む。ところで、家長である人間は、イエスご自身ではないだろうか。彼は、教えの好機に応じて「自分の倉から諸々の新しい物と諸々の古い者をひき出す」:「諸々の新しい物」とは、霊的なもので、義人たちの「内なる人」の中で彼によって常に新たにされ、常に「日ごとに新たにされる[11]」。他方、「諸々の古い物」は、「諸々の文字の内に諸々の石[12]」――すなわち「古い人間[13]」の「石の諸々の心[14]」――に刻み込まれた」である;こうしてイエスは、「諸々の天の国の学識を得た人」を、文字の比較と霊の提示とによって豊かにし、自分に似た者とする;「弟子が」、パウロによって次のように言われていることに従えば、先ずキリストの模倣者を模倣し、その模倣者に続いて弟子自身もキリストを模倣することによって、「師のようになる[15]」まで:パウロは次のように言っている:「私がキリストの模倣者であるように、あなた方は私の模倣者になりなさい[16]」と。しかし、家長であるイエスは、より単純な意味でも、「自分の倉から諸々の新しい物」として福音的な教えを、また、「諸々の古い物」として、律法と諸々の預言から引用された諸々の発言の比較を引き出すことができる。それらの発言の諸々の実例は、諸々の福音の中に見出すことができる。それらの古い物と新しい物に関しては、次のように述べる霊的な律法にも傾聴すべきである:「そしてあなた方は、諸々の古い物と、諸々の古い物の諸々の古い物を食べなさい。そしてあなた方は、諸々の新鮮な物の面前から諸々の古い物を運び出しなさい。そうすれば私は、天幕をあなた方の内に置くだろう[17]」と。確かに我々は、(感謝の祭儀という)賛美の中で、「諸々の古い物」として諸々の預言的な言葉を、それらの「諸々の古い物の諸々の古い物」として諸々の律法的な言葉を食べる[18]。しかし「諸々の新鮮で」福音的な物が来たため、我々は福音に従って生活し、文字に属する「諸々の古い物」を「諸々の新鮮な物の面前から」運び出す[19]。そして(神は)、次のように述べる約束を果たしつつ、ご自分の幕屋をあなた方の内に置くのである:「私は、彼らの内に住んで、巡り歩くだろう[20]」。



[1] Mt.13,52.

[2] 1Tm.4,13.

[3] Ps.1,2.

[4] 「我々の心の中で」:あまりにも直訳過ぎるので意訳すると、「心して」、「細心の注意を払って」ということになる。

[5] Cf.He.10,1.

[6] Cf.2Co.3,2.

[7] Cf.1Co.2,13.

[8] Cf.2Co.13,1.

[9] Mt.13,52.

[10] Mt.13,52.

[11] 2Co.4,16.

[12] Cf.2Co.3,7.

[13] Ep.4,22; Col.3,9.

[14] Cf.Ez.11,19.

[15] Mt.10,25.

[16] 1Co.11,1.

[17] Lv.26,10-11.

[18] Cf.Mt.26,26-27;訳文中の「賛美」は、文脈上、「感謝の祭儀」の中で唱えられる「賛美」である。

[19] Cf.Com.Jn.I,6,36(SC 120,p.79):「新しい契約である福音は、我々を文字に属する諸々の古い物から我々を運び出しつつ、覚知の光の中で、霊に属する決して古びることのない新しい物を輝かせる。その新しい物は、新しい契約に固有のものであり、すべての()文書の中に蓄えられていた」。

[20] 2Co.6,16; Lv.26,12. オリゲネスの聖書引用は、ある一定の規則に従っているが、それは言わない(朱門)

 

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