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18 「イエスは彼らに言った:『預言者は、自分の故郷以外でなら、敬われないことはない』と[1]」。

 言われた言葉は、すべての預言者に普遍的に等しく帰され得るもので、預言者たちのひとり一人は、自分の故郷でのみ敬われないのか――それは、敬われない者は皆、故郷でも敬われないということではない――、それとも、単数で言われたことから、それらの言葉は一人(の預言者)について言われたのか否かを探求すべきである。そこで、もしもそれらの言葉が一人(の預言者)について言われたものなら、(我々によって)語られた諸々の事柄で十分である。なぜなら我々は、書かれている事柄を救い主に当てはめたからである。他方、普遍的なものであるなら、それは歴史(の立場)からは真実ではない。なぜなら、エリヤはギレアドのティシュベの内で敬われないことはなかったし[2]、エリシャはアベル・メホラの内で[3]、サムエルはラマタイムの内で[4]、エレミアはアナトトの内で敬われないことはなかった[5]からである。しかし、比喩的に解釈されるなら、まったく真実である。実際、彼らの故郷をユダヤと見なし、(彼らの)親戚たち[6]をあのイスラエル(の民)と見なし、(彼らの)家をおそらく身体と見なさなければならない。それというのは、彼らは皆、ユダヤの内で、「肉による」イスラエル(の人々)[7]――これらの人たちは、まだ身体の内にあった――によって敬われなかったからである。それは、『使徒たちの諸々の言行』の中で民に対する譴責の形で書かれている通りである。こう言われている:「実際、あなた方の父祖たちが、預言者たちの誰かを迫害しなかったことがあるか。彼らは、正しい方の到来を予め告げた人たちを殺した[8]」。パウロも、『テサロニケの人たちへの第一の手紙』の中で同じようなことを語っている:「兄弟たち、あなた方は、ユダヤにおいてキリスト・イエスの内にある神の諸教会の模倣者になりました。なぜならあなた方も、同郷の人たちから同じ諸々の苦しみを受けました――彼らが、ユダヤ人たちから諸々の同じ苦しみを受けたように。ユダヤ人たちは、主イエスと預言者たちを殺したばかりでなく、私たちをも迫害し、神に喜ばれず、すべての人間たちに敵対しています[9]」。したがって、異邦人たちの内で「預言者が敬われないことはなかった[10]」。実に、彼らは彼をまったく知らないか、それとも、彼を預言者だと認め受け入れ、敬っている。諸教会に属する者たちも、そのような人たちである。預言者たちは敬われなかった。先ず彼らは、歴史に従えば民から迫害され、次に彼らの預言は民から信じられなかった。実際、もしも彼らがモーセと預言者たちを信じていたなら、キリストを信じていただろう。キリストは、モーセと預言者たちを信じる人たちにとって、キリストを信じることは必然であり、キリストを信じない人たちにとって、モーセを信じないことは必然であることを証明した[11]。さらに、罪を犯す人は、律法の違反を通して神を敬わないと言われているのと同じように[12]、預言された者を信じないことを通して、預言者は、諸々の預言を信じない人によって敬われない。

 しかし、歴史に立ち返って、エレミアが受けた諸々の苦難を取り上げるのは有益である。それらについて彼は次のように言っている:「そして私は言った:『私は主の名を口にせず語らない』[13]」;また別の箇所で、「私は絶えず嘲笑されている[14]」。イスラエルの当時の王の下で彼が受けた諸々の苦難は、彼の預言に記載されている。また、(イスラエルの)民に属する人たちがモーセを石打ちにするためにしばしば来たことも書かれているが[15]、彼れの祖国だったのは、どこかの諸々の石ではなく、彼についてきた人たち、すなわち(イスラエルの)民であった[16]。彼もまた、彼らの許では敬われなかった。イザヤも、民によって引き裂かれたと記録されている[17]。しかし、その報告が外典のイザヤの中で伝えらているという理由で、その報告を受け入れない人がいるなら、その人は、『ヘブライ人たちにへ手紙』の中で次のように書かれた諸々の事柄を信じるべきである:「彼らは石を投げられ、引き裂かれ、試みられた[18]」とある。実際、「彼らは引き裂かれた」という言葉は、イザヤに当てはめられます――「彼らは、剣による殺害で死んだ[19]」という言葉が、「聖所と祭壇の間で」殺されたゼカルヤに当てはまるのと同様に:それは、救い主が――私が思うに――一般の公認された諸々の巻物には収められていないが、諸々の外典書に収められていると考えられる書物を証しつつ教えたとおりである[20]。彼らは、「故郷の内で」、ユダヤ人たちの許で「敬われず」、「羊の諸々の毛皮の内に、山羊の諸々の川の内に放浪し、窮乏し、打ちひしがれている[21]」云々。なぜなら、「キリスト・イエスの内に信心深く生きることを望む人たちは、迫害されるでしょう[22]」とあるからである。当然パウロも、「預言者が自分の故郷の内で尊敬を得ない[23]」ことを知っていて、多くの場所でみ言葉を宣べ伝えたが、タルソスでは宣べ伝えなかったにちがいない。それゆえ使徒たちも、イスラエルを後に残して、救い主によって命じられたことを行ったのである:「あなた方は、すべての諸国民を弟子にしなさい[24]」。そして、「あなた方は、私のために、エルサレムとユダヤ全土とサマリアにおいて、また地の果てに至るまで、証人となるだろう[25]」とある。もちろん彼らは、ユダヤとエルサレムにおいて、命じられたことを行ったが。しかし、「預言者は自分の故郷の内で尊敬を得ない」のであるから、また、ユダヤ人たちがみ言葉を受け入れなかったため、彼らは、諸国民の方へ立ち去った[26]。また、「私は私の霊からすべての肉に(幾らかを)注ぐ。あなた方は預言するだろう[27]」という言葉は、救い主の到来の後、諸国民からなる諸教会の内で実現したのであるから、あなたは、次のように言うことができるのではないか考えてみるべきである:以前は世に属していた人たちは、信じるようになったがゆえに、もはや「自分の故郷の内で」世に属する者でなくなり[28]、聖霊を受けて預言するようになったが、尊敬を得ることとはなく、敬われなかった、と。それゆえ、救い主によって言われて言葉に従って、預言者たちと同じ諸々の苦しみを受ける彼らは幸いである[29]:「彼らの先祖たちも、預言者たちに同じようにした[30]」とある。それらの言葉を公正に注視するする人が、もしも、(気持ちを)しかりと引き締めて生活し、罪を犯した人々を咎めたがゆえに[31]憎まれ、奸計を巡らされ――「正義のゆえに」迫害され、誹謗されたなら[32]、その人は悲しまないどころか、喜び歓喜するだろう。なぜならその人は、それらによって――その人が諸々の同じ苦しみ受けたという理由で、その人を預言者たちに類比した方から――「諸々の天において大きな報いを受ける[33]」と確信しているからである。したがって世の中で、そして、義人たちの生活によって圧迫された罪人たちの許で敬われないのは、預言者の生活を熱望し、彼らの内にあった霊を受け入れた人には避けがたいことである。



[1] Mt.13,57.

[2] Cf.R.17,1.

[3] Cf.R.19,16.

[4] Cf.1S.1,1.

[5] Cf.Jr.1,1.

[6] Cf.Mc.6,4.

[7] 1Co.10,18.

[8] Ac.7,52.

[9] 1Th.2,14-15.

[10] Mt.13,57.

[11] Cf.Jn.5,46; cf.Com.Mt.X,22; Fragm.313,9; Co.Cels.II,4; Com.Rm.II,11.

[12] Cf.Rm.2,23.

[13] Jr.20,9.

[14] Jr.20,7.

[15] Cf.Ex.17,4.

[16] モーセが石打ちを受けそうになったのは、その移動中のことである。

[17] Cf.Ascension d’Isaie,V,1.

[18] He.11,37.

[19] He.11,37.

[20] Mt.23,35; cf.2Ch.24,20-22.

[21] He.11,37.

[22] 2Tm.3,12.

[23] Cf.Jn.4,44.

[24] Mt.28,19.

[25] Ac.1,8.

[26] Cf.Ac.13,46.

[27] Cf.Jl.3,1; Ac.2,17.

[28] Cf.Jn.15,19.

[29] Cf.Lc.6,22; Mt.5,10-11.

[30] Ac.6,23.

[31] Cf.Mt.18,15.

[32] Cf.Mt.5,10; Lc.6,22.

[33] Cf.Mt.5,12; Lc.6,23.

 

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