23 「ヨハネの弟子たちが来て、彼の遺体を葬り、イエスに知らせに行った。イエスは、荒れた場所に退いた。諸国の民[1]と――預言者たちの消滅の後は、あらゆる所の町から来た――群衆が彼に従った。民が多数であることを見たイエスは、憐れみを覚え、彼らの諸々の病気を癒した。そしてその後、僅かな量から十分すぎるほどに増えた祝福されたパンで、彼に従ってきた人たちを養った[2]」。

「イエスは、(そのことを)聞くと、船でそこから去り、荒れた場所の中へ一人で退いた[3]」。この言葉は我々に、迫害する者たちから、そしてみ言葉の故の陰謀の見込みから、できる限り退くことを我々に教えている。そのことは、理にかなっていることであるかもしれない。諸々の危機的な状況の外にいることができるのに、それらに突進するのは、性急で向こう見ずなことである。いったい誰が、それらの状況をかわすことを思いつくだろうか――イエスは、ヨハネに関わる諸々の事柄に基づいて退いたばかりでなく、次のように言って教えているにもかかわらず:「もしも彼らがその町の中であなた方を迫害するなら、あなた方は、他の町の中に逃げなさい[4]」と。したがって、試練が我々を直撃した場合には、この上ない気高さをもって果敢にその試練に耐える必要があるが、かわすことができるのに、そうしないのは軽率である[5]。しかし、その箇所を言葉通りに、そして比喩的に検討しなければならないのであるから、次のように言わなければならない:ユダヤ人たちの間で預言は陰謀を企てられ抹殺されたため――なぜなら彼らの間では誕生に関する諸々の事柄が尊ばれているからである――、そして、空しい諸々の動き――それらは、(物事を判定する)真理の許では旋律がなく調和のないものだったが、劣悪な者たちの主人とその主人と食卓をともにする者たちが憶測するには、美しい旋律があって彼らを満足させるものだった――の受容への対応として、イエスは、預言が陰謀を企てられ断罪されている場所から退いたと。彼は、諸国の民の中にある神の欠けた場所に退いた。それは、み国が彼らか取り除かれて、「その(み国の)諸々の実りを結ぶ諸国の民[6]」に与えられた後は、神のみ言葉が諸国の民の中にあるようになるためであり、そのみ言葉によって、律法についても預言者たちについても教えを受けたことのない寡婦の子どもたちの方が、律法という夫を持つ婦人たちよりも数が多くなるためである[7]

 しかし、かつてみ言葉がユダヤ人たちの間にあったとき、それは、諸国の民の間にあるのと同じようにあったのではない。それゆえ彼は、預言者の抹殺に関する知らせを聞くと、「船において、すなわち身体において、荒れた場所の中へ一人で行った」と言われている[8]。「荒れ地の中に入ると」、彼は、その地の中に「一人で」いた。なぜなら、彼の言葉と教えは、諸国の民の間で習慣的に行われている諸々の事柄と考えられている事柄とは異質だったからである。「そして、諸国の民の中にいる群衆たちは、み言葉が自分たちの荒れ地に訪れ――我々が既に述べたとおりに――、一人でいるのを聞いて、自分たちの諸々の町から彼についてきた[9]」――各自が、父祖伝来の諸々の迷信的な習慣を捨て、キリストの律法に近づくことによって。しかし(群衆たちは)「船において」ではなく、「徒歩で」彼についてきた[10]。なぜなら彼らは、身体においてではなく、裸の魂において、そしてみ言葉によって説得された決断において、「神の像[11]」に従ったからである。ところが彼らは、イエスに近づくことができなかったので、彼は、彼らに向かって(船を)「出た[12]」。それは、「外にいる者たち」の許にいることによって、「外にいる者たち」を内部に手引きするためである[13]。神のみ言葉が出迎えに行った外部にいる群衆は、数が多かった。そして、彼は、ご自分の巡察の光を群衆に注ぎ[14]、群衆を見た。彼は、彼らの中にいることを通して彼らがむしろ憐れみを受けるに相応しいことを見て、苦しまない方は人を愛する方がであるゆえに腸を痛めて苦しんだ[15]。そして「腸を痛めた」ばかりでなく、悪徳に由来する多様なあらゆる種類の諸々の病を持つ「彼らの中の病人たちを癒した[16]」。



[1] ユダヤ人民族以外の人たち。

[2] Cf.Mt.14,12-20.

[3] Mt.14,13.

[4] Mt.10,23.

[5] 言葉の壁に苦しむ日本の研究者が他の研究書を頼りに述べているように、殉教に関するオリゲネスの考え方は、血気盛んだった彼の青年期の頃のそれとは異なる。オリゲネスは、ある書物で、人は神によってそれに招かれたと確信できなければ、自分の決断で殉教に進むべきでないというようなことも述べている。

[6] Mt.21,43.

[7] Cf.Ga.4,27; Is.54,1; Hom.Jr.IX,3(拙訳).

[8] Cf.Mt.14,13.

[9] Cf.Mt.14,13.

[10] Cf.Mt.14,13.

[11] Cf.2CO.4,4; Col.1,15;Rm.8,29.

[12] Mt.14,14.

[13] Cf.Mc.4,10-12.

[14] Cf.Ps.88,16.

[15] Cf.Mt.14,14. これは、かなり熱の入った表現である。原文は、特にカトリック系の多くの研究者たちがこの箇所を取り上げた。私も『神の痛みのオイコノミア』で未熟ながら取り上げた。そして私の論文を盗用した奴も、素知らぬ顔で取り上げた。それは、原語を絶した出来事であり、タブーの域を超えている。読者は注意されよ。

[16] Mt.14,13.

 

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