次に、「諸々の天の国は、畑の中に隠された宝――人はそれを見つけると隠した宝――に似ている[1]」。

 前半のたとえ話は、諸々の群衆に彼が語ったものである[2]。しかし、これ[3]とこれに続く二つのたとえ話[4]――それらは、たとえ話でなく、諸々の天の国に関するまさに直喩である[5]――は、当然、彼が家の中にいるときに、弟子たちに語ったのだろう。読解に注意する人は、これとこれに続く二つの話について、それらもたとえ話でないのかどうか吟味すべきである。なぜなら()文書は、前半の諸々の話に関しては、それぞれに対してたとえ話という名称を置いたのに対し、後者の諸々の話に対しては同じことしなかったからである。そうしたのは当然である。実際、彼が諸々の群衆に「諸々のたとえ話[6]」で語り、「それらすべてを諸々のたとえ話の内に語り、たとえ話を抜きにして彼らに語らなかった[7]」のであれば、また、「家の中に入った[8]」彼が対話をしたのは、諸々の群衆でなく、家の中で彼に近づいた弟子たちであるなら、家の中で語られた諸々の事柄がたとえ話でないのは明らかである。確かに彼は、「外にいる人たち[9]」と、「諸々の天の国の諸々の神秘を知ることを許されていない[10]」人たちには、諸々のたとえ話の内に語った。そこで人は言うだろう:もしもそれらがたとえ話でないとすれば、それらは何なのかと。おそらく我々は、()文書の言い回しに従って、それらは諸々の類比[11]であると言うだろう。実際、『マルコ(による福音)』に次のように書かれている:「我々は、神の国を何に類比しようか。それとも、どのようなたとえ話の内にそれを置こうか[12]」と。このことから、類比とたとえ話とに違いが存在することが示される。類比は類的であり、たとえ話は種的であるように思われる[13]。おそらく、たとえ話の最上位の類である類比も、たとえ話とともに、その類と同名の類比をも種として含んでいるだろう。そのことは、多くの名称の措定に秀でた者たちが注目したように、他の諸々の事柄でも起こっている。彼らは次にように言う:多くの種――たとえば「反応」や「衝動」など――を包摂する「衝動」は[14]、最上位の類である。しかし彼らは、その「衝動」が、「反動」との違いを明示するために、その類(としての衝動)と同名的に種として利用されると言う。



[1] Mt.13,44.

[2] Mt.13,3-35.

[3] Mt.13,44.

[4] Mt.13,45;13,47.

[5] 訳者(朱門)は、他に適切な訳語があると思うが、差し当たり思い付かないので、とりあえず、parabolai, を「たとえ話」(換喩)o`moiw,seij を「類比」(直喩)と訳している。

[6] Mt.13,3; Mc.4,2.

[7] Mt.13,34.

[8] Mt.13,36.

[9] Mc.4,11.

[10] Mt.13,11.

[11] o`moio,thtej)

[12] Mt.4,30.

[13] Cf.eg. Aristotles, Top.I,5; Platon, Parm.129C.

[14] 「衝動」(o`rmh,)と「反応」(avformh,)は、いずれもストア派の用語。前者が、類概念として衝動一般をさす場合、後者は、主導能力に統御された意志的な衝動をさすいわば「衝動の種概念」となる。ここでは、衝動と反応とをともに包摂する類概念としての「衝動」が、便宜的に種概念として、「反応」に対置されることが紹介されている。

 

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