この箇所にいたって、あなたは、次のいずれであるかと尋ねるだろう:「諸々の天の国」は、「野原の中に隠された宝」にのみ類比されるだけで[1]、その国は野原と異なると理解すべきか。それとも、それは、この「野原と、その野原の中に隠された宝」との全体に類比されるゆえ、諸々の天の国は、その類比によって、その野原と野原の中に隠された宝とであるのかと。さて、或る人間がその野原の中に――すなわち、(聖なる)諸文書の中であれ、諸々の明白なものと諸々の隠れたものとから成り立っているキリストの中であれ――入っていき、知恵の隠された宝を、キリストの内であれ諸文書の内であれ、見出す――実にその野原を経巡り,諸文書を探求し[2]、キリストを理解しようと求めるその人は、彼の内にある宝を見いだす――。そして彼は、見出すと、諸文書の語られざる諸理解やキリストの内にある「知恵と覚知[3]」の諸々の宝を凡庸な人たち披露することは無難なことではないと考え、(それらを)隠して立ち去り、何とかしてその「野原」すなわち諸文書を買って、それらを自分個人の所有物にしようとする。なぜなら彼は、先ずユダヤ人たちに委ねられた「神の諸々の託宣[4]」を神の諸文書から得たからである。キリストの弟子となった人がその野原を買うと、「神の国」――この国は、別のたとえ話によれば「ぶどう園」である――は彼らから取り去られ、「その(国の)諸々の実を結ぶ諸国の民」に与えられる[5]:信仰によって、持ち物をすべて処分し、以前あった諸々のもの――悪徳が彼にあった――をもはや何一つ自分自身の許に持たないようにすることによって「その野原」を買った人に[6]。しかし、隠された宝を持っている畑がキリストであっても、あなたは同じことに至るだろう。実際、「すべてを捨てて」彼に従う者たちは[7]、別の理屈では自分たちの持ち物を処分した売ったようなものである:(持ち物を)処分し、それらを放棄することによって、そしてそれらに代わり、神から助けられつつ、美しい決断をすることによって、大きな犠牲と高い地代を払い、宝をそれ自身の内に隠し持つ野原を享受するために。



[1] Cf.Mt.13,44.

[2] Cf.Jn.5,39.

[3] Col.2,3.

[4] Rm.3,2.

[5] Cf.Mt.21,33-43.

[6] Cf.Mt.19,21; Mc.10,21; Lc.12,33; 18,22.

[7] Cf.Mt.19,27; Mc.10,28; Lc.5,11; 18,28.

 

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