14 それらの次に、律法の神と福音のイエス・キリストの神とは同じでないと主張する人たちによって中傷されている表現を考察するのは値打ちがある。彼らは、イエス・キリストの天的な父が、モーセの律法に従って神を敬う人たちの農夫でないと主張する[1]。イエス自身は、次のように言っていた:世界と律法を造った神に仕えるファリサイ派の人たちは、彼の「天的な父が植えなかった植木である;それゆえ、その植木は根刮ぎされる[2]」と。彼らは、実にそれらのことに関して、次のように言うだろう:エジプトから出てきた民を、ご自分の「嗣業地の山の中に」、ご自分の「準備された居住地の中に[3]」導き入れて植えた方がイエスの父であったなら、イエスはファリサイ派の人たちに、「私の天的な父が植えなかった一切の植木は、根刮ぎされるだろう[4]」とは言わなかっただろう、と。それらに対して我々は次のように言いたい:すなわち、律法に関わる諸々の事柄についての邪悪な解釈のゆえに、諸々の天の内にいる父の植木でなかった者たちは皆、諸々の考えを盲目にされた[5];なぜなら、「彼らは真理を信じないで、不正を喜んだ[6]」からである;彼らは、この代の子らの中から神とされた者――それゆえパウロの許で「この代の神[7]」と呼ばれる者――の(影響)下にあった。しかしあなたは、我々のパウロが本当に、それが神であると言っていると思うべきではない。なぜなら、敬神者たちの快楽よりも敬快者たちの快楽を過剰に尊ぶ者たちの「腹」が、神ではないのに、パウロによって、彼らの神であると言われているのと同様に[8]、この代の支配者――彼について救い主は、「いま、この世界の支配者は裁かれた[9]」と言っている――は神ではないが、「(神の)子とする霊[10]」を受け取って、あの代と「死者たちの復活」との子らになることを望まない者たち[11]――それゆえ彼らは、この代の子性の内に留まっている――の神であると言われている。以上の諸々の事柄が――たとえ逸脱して言われているとしても――、「彼らは、盲人たちを導く盲人である[12]」という言葉のゆえに取り上げられる必要があったと、私には思われる。しかし、(彼らとは)誰だろうか。ファリサイ派の人たちである。「この代の神は」、イエス・キリストを信じなかったがゆえに、「不信心な彼らの諸々の理解を盲目にし、キリストの顔における神の栄王の福音の光が彼らに対して輝かないようにするために」盲目にしたのである[13]。しかし、自力で見ることのできる力をまだ受け取っていないが故に導き手たちを必要とすると気付いている盲人たちから逃げるべきであるばかりか、健全な教えの内に導くと約束するすべての人たちに対しても、注意深く耳を傾けるべきであり、言われている諸々の事柄に健全な判断を下すべきである――それは、我々が健全な教えに属する諸々の事柄を見ない盲人たちの無知に従って導かれて、我々自身も、諸々の()文書の精神を見ないが故に盲人になり、導き手と導かれる人の両者が、先ほど我々が述べた穴に落ち込まないようにするためである[14]

それらに続いて、どのような仕方でペトロが、救い主に答えて、「そのたとえ話を我々に説明してください[15]」と言ったのかが書かれている。なぜなら彼は、「口の中に入ってくるものが人間を汚すのではなく、口から出ていくものが人間を汚す[16]」という言葉を理解しなかったからである。それに対して救い主は、「あなた方も、相変わらず無理解なのか[17]」という言葉を述べた――あたかも彼は次のように言っているかのように:これほど長い時間、あなた方は私と一緒にいたのに、言われている諸々の事柄の意図をまだ理解しないのか;まだあなた方は、「彼の口の中に入ってきたものは、腹の中へと向かい、その腹から進み出たものは便所の中に捨てられる[18]」のだから、「人間を汚さない」ということを理解しないのかと。ファリサイ派の人たちは、彼らが信じていると思われていた律法の面においてでなく、律法と律法の内に書かれている諸々の事柄とに関する邪悪な解釈の面において、イエスの「父の植木[19]」でなはなかった。実際、律法に関わる二つの奉仕職が理解される:すなわち諸々の文字の内に刻印され、霊と何の関係も持たない死の奉仕職と、霊的な律法の内に理解される命の奉仕職である[20]。それゆえ、誠実な姿勢から「私たちは、律法が霊的なものであることを知っている[21]」という言葉を言うことができ、それ故に「理一方は聖なるものであり、掟も聖なるもの、義なるもの、善なるものである[22]」と言うことができる人たちは、「天的な父が植えた植木であった[23]」。それに対し、そのような人たちでなく、「殺す文字[24]」にだけ熱中する人たちは、「神の植木」ではなく、彼らの心を硬くして、それに覆いをかぶせる人の植物だった。その覆いは、彼らが主に向き直らない限り、力を持っていた[25]。「実際、もしも人が主に向き直るなら、その覆いは取り去られる。しかるに、主は霊である[26]」。

しかし、人はこの箇所に至って、次のように言うかもしれない:「口の中に入ってくるものが――たとえそれが、ユダヤ人たちによって汚れていると見なされても――人間を汚すのではない[27]」のと同様に、「口の中に入ってくるもの」――主のパンと名づけられるものが、純粋な人たちによって(人間を)聖化すると見なされていても――が人間を聖化するのではない、と。この発言は、軽視されるべきでものではなく、それゆえ明瞭な解説が必要であると私は思う。それは次のような内容になると私に思われる:食べ物ではなく、疑念を持って食べる人の意識が食する人を汚す[28]――実際、「疑念を持つ人が食べるなら、その人は、断罪されます。なぜならそれは信仰によらないからです[29]」とある――のと同様に、また、いかなる清浄なものも、不信仰で汚れた人にとっては、その人の汚れと不信仰の故に、それ自体で清浄なものは何もないのと同様に、「神の言葉と祈願の故に聖化されるもの[30]」も、その固有の言葉によって、(それを)享受する人を聖化するのではない。なぜなら、もしもそうなら、それは、主に「相応しくない仕方で」食べる人を聖化することになるかもしれないからである[31]。そして、いかなる人も、その食物の故に、脆弱になったり病気になったり、眠りについたりしないだろう。パウロは、次の言葉の中で、何かそのようなことを提示している:「それ故、あなた方の中で、多くの者たちが脆弱で病気であり、かなりの人たちが眠りについています[32]」。したがって主のパンに関しても、御利益が(それを)享受する人にあるのは、汚れのない精神と清浄な意識とにおいてそのパンに与るときである。このように我々は、「神の言葉と祈願によって聖化された[33]」パンを食べないことによって、まさにそれを食べないことそれ自体の故に何らかの善きものを欠いているのでなく、(それを)食べることによって、何らかの善きものを溢れるばかりに頂くのではない。なぜなら、その欠如の原因は邪悪と諸々の罪だからであり、横溢の原因は義と諸々の善行だからである。結局のところ、パウロの許で次の言葉の内に言われていることもそのようなことである:「私たちは、食べるからといって、溢れるばかりに頂くのでもなく、食べないからといって欠いているのではありません[34]」と。そして、「口の中に入ってくる一切のものが腹の中に進み、便所の中へと投げ捨てられる[35]」なら、「神の言葉と祈願によって聖化された[36]」食物も、質料的なものである限り、「腹の中に進み、便所の中へと投げ捨てられる」。しかしながら、その食物に向けられた祈りに従って、「信仰に比例して[37]」、それは御利益となり、御利益の方を見る精神の視覚の原因となる。そして、パンの質料ではなく、それに対して語られる言葉が、「主に相応しい仕方で[38]」それを食べる人に御利益をもたらす。以上の諸々の事柄は、予型的で象徴的な(キリストの)身体に関するものである。しかし、「肉となり、真の食べ物となった[39]」み言葉それ自体に関しては、多くの事柄を言うことができるだろう。その食べ物を食べる人は、絶対に「永遠に生きるだろう[40]」。しかし、劣悪な人は皆、それを食べることはできない。実際、依然として卑劣なままの人が、「生けるパンでもある[41]」「肉になったみ言葉[42]」を食べることができるなら、「このパンを食べる者は皆、永遠に生きるだろう[43]」とは書かれなかっただろう。



[1] Cf. Jn.15,1.

[2] Mt.15,13.

[3] Cf.Ex.15,17.

[4] Mt.15,13.

[5] Cf.2Co.4,4.

[6] 2Th.2,12.

[7] 2Co.4,4.

[8] Cf.Ph.3,19.

[9] Jn.16,11.

[10] Rm.8,15.

[11] Cf.Lc.20,35.

[12] Mt.15,14.

[13] Cf.2Co.4,4-6.

[14] Cf.Mt.15,14.

[15] Mt.15,15.

[16] Mt.15,11.

[17] Mt.15,16.

[18] Mc.7,18; cf.Mt.15,17.

[19] Mt.15,13.

[20] Cf.2Co.3,7-8.

[21] Rm.7,14.

[22] Rm.7,12.

[23] Cf.Mt.15,13.

[24] Cf.2Co.3,6.

[25] Cf.2Co.3,16.

[26] Cf.2Co.3,16-17

[27] Mt.15,11.

[28] Cf.1Co.8,7.

[29] Rm.14,23.

[30] 1Tm.4,5.

[31] Cf.1Co.11,27.

[32] 1Co.11,30.

[33] 1Tm.4,5.

[34] Cf.1Co.8,8.

[35] Mt.15,17.

[36] 1Tm.4,5.

[37] Rm.12,6.

[38] Cf.1Co.11,27.

[39] Cf.Jn.6,56.

[40] Cf.Jn.6,54.

[41] Jn.6,51.

[42] Jn.1,14.

[43] Jn.6,54.

 

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