18 「そしてイエスは、そこから――明らかに先ほどの諸地方、すなわちティルスとシドンの諸地方から[1]――移動して、ガリラヤの海――習慣的にゲネサレトの湖と名づけられている海[2]――の畔に行き、再び山の中に登り、そこに登って座った[3]」。

次のように言うことができる:イエスが座っているその山の中には、健康な人たちが登るばかりでなく、健康な人たちとともに、様々な悩みに苦しんでいる人たちも、登る。そしておそらく、イエスが登って座っているその山は、一般に名づけられているところの教会――神のみ言葉のゆえに、他の土地とその土地に上にいる者たちを超えて高くそびえる教会だろう。そこには、諸々の至福(に関する話し)にあるように[4]、群衆たちを後に残した弟子たちが向かって行くだけでなく、多くの群衆たちも向かっていくだろう。ただし彼ら自身は、口が利けない者たちであるとか、何かを被っているとして非難されてはいないが、自分たち自身とともに、そのような者たちを持っている。そして、次の人たちを見ることができる:すなわち、神の子が座っているその山に向かって行く群衆たちとともに、告げられる諸々の事柄に対して耳の利かない人たち、魂において目が利かず「真の光[5]」を見ない人たち、足が利かず理性に従って歩くことができない人たち、肢体が曲がっていて理性に従って働くことのできない人たちを(見ることができる)。したがって、それらの事柄を魂に被っているそれらの人たち――イエスがいた山に群衆たちといっしょに登る人たち――は、イエスの諸々の足の外にいる限りは、彼によって癒やされない。しかし、そのような諸々の事柄を被っていたため、彼らが群衆たちによって「彼の諸々の足の許に」、しかもキリストの身体の諸々の最端に投げ出されたとき、彼によって癒やされる。

そしてあなたが、より一般に教会と言われている集会の中で、教会の最末席にいる人たちの後に――いわば教会というイエスの身体の諸々の足の許に――投げ出された入門者たちが固有の聾と盲と跛行と畸形を伴って近づいて行き、適時にみ言葉に即して癒やされるのを見るとき[6]、あなたは次のように言っても間違えないだろう:すなわち、そのような人たちが教会の群衆たちとともに、イエスがいた山の中に登って、彼の諸々の足の許に投げ出され、彼らは癒やされた;その結果、群衆たちは、それほどの諸々の悪からより善き状態への変化が生じたのを見て驚き[7]、「以前は口の利けなかった者たちが後で、神の言葉を語り、足の利かなかった者たちが歩いている[8]」と言うだろう、と。なぜなら、他なるイザヤの預言が、諸々の身体的な事柄の中ばかりでなく、諸々の霊的な事柄の中でも成就するからである。彼は次のように言っている:「そのとき、足の利かない人は、鹿のように飛び跳ねるだろう。そして、口の不自由な人たちの舌ははっきりすだろう[9]」と。そしてそこでも、「足の利かない人は、鹿のように飛び跳ねるだろう」という言葉が籤引きをするように言われているのでないとすれば[10]、我々は次のように言っても無駄ではなかろう:鹿――それは、清浄な生き物であるとともに、諸々の蛇の敵であり、それらの毒によって害され得ない――に、以前は足が利かなかったが、イエスのゆえに鹿のように飛び跳ねる人たちは比べられていると[11]。さらに、「口の利けない者たちが話しをするのが見られる[12]」限りで、「口の不自由な人たちの舌ははっきりするだろう[13]」と言う預言、あるいはむしろ、「(あなた方)口の利けない人たちは、聞きなさい[14]」と述べる預言が成就するだろう。そして、目の利かない者たちは、「(あなた方)口の利けない人たちは、聞きなさい[15]」という言葉に続いて、「目の利かない人たちは視力を回復する[16]」と述べる預言に従って見る。また目の利かない者たちは――世界を見て、「諸々の被造物の美の偉大さから、それらに類比して[17]」、造り主を観想するとき、「世界の創造以来、諸々の制作物において理解される彼の不可見的な諸々の事柄[18]」を俯瞰するとき――見るだろう、すなわち注意深く賢明に見て理解する。

そして群衆たちは、それらの事柄を見て、「イスラエルの神の栄光をたたえた[19]」。しかも、先ほど述べられた人たちを癒やした方の父なる神と、イスラエルの神が同じであることを確信して、彼らは栄光をたたえている。なぜなら「神はユダヤ人たちだけのものでなく、異邦人たちのものでもある[20]」からである。したがって我々は、イエスが座っている山、すなわち彼の教会に、我々と一緒に登ろうと欲っしている人たち――口の利かない人たち、目の利かない人たち、足の利かない人たち、身体の曲がった人たち、そして他の多くの人たち――を、我々と一緒に登らせることにしよう。そして我々は、イエスの諸々の足の許に彼らを投げ出して、彼らを癒やしてもらい、群衆たちが彼らの癒やしに驚嘆するようにしよう[21]。実際、弟子たちが、そのような諸々諸の事柄に驚嘆したとは書かれていない――たとえ彼らがそのときイエスの許にいたとしても。それは次の言葉から明らかである:「そしてイエスは、ご自分の弟子たちを呼び集めて、『私は群衆たちのために腸を痛める』云々と言った[22]」。

もしもあなたが、「多くの群衆たちが彼の許に行った[23]」という言葉に慎重に注意するなら、あなたは次のことを見出すかもしれない:すなわち、弟子たちはそのとき彼の許に行かなかったが、彼らはとうの昔に従い始め、山の仲間で彼に従った、と。しかし、弟子たちに劣る者たちは、彼の許に行き、そのとき初めて彼に近づいたが、自分たちと一緒に登った者たちと同じような諸々の事柄を被っていなかった。しかし、あなたは、この福音の中で次のことを考察すべきである:誰々がイエスに従っていたと書き記されているか、誰々が(彼の)許に行き、誰々が連れて行かれ、そして誰々が、先導する者たちと従う者たちとに分けられたと書き記されているか;そして彼の許に行った者たちの中で、誰々が家の中で(彼の)許に行ったのか、誰々が別のところにいる彼の許に行ったのか。実際あなたは、その考察から、多くの諸々の事柄を見出すかもしれない――「諸々の霊的な事柄を諸々の霊的な事柄に突き合わせて判断することによって[24]」、諸々の福音における精密な知恵に相応しい(多くの)諸々の事柄を。



[1] Cf.Mt.15,21.

[2] Cf.M.14,34; Lc.5,1.

[3] Mt.15,29.

[4] Cf.Mt.5,1.

[5] Jn.1,9.

[6] Cf.Mt.11,5.

[7] Cf.Mt.15,29-31.

[8] Mt.11,5.

[9] Cf.Is.35,6.

[10] 「籤引きをするように」とは「偶然に」ということ。訳者(朱門)は直訳をしている。

[11] Cf.Hom.Jr.XVIII,9; C.Cels.II,48.

[12] Mt.11,5.

[13] Cf.Is.35,6.

[14] Is.42,18.

[15] Is.42,18.

[16] Is.42,18.

[17] Cf.Sg.13,5.

[18] Rm..1,20.

[19] Mt.15,31.

[20] Rm.3,29.

[21] Cf.Mt.15,29-31.

[22] Cf.Mt.15,32.

[23] Mt,15,30.

[24] 1Co.2,13.

 

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