こうしてイエスは、弟子たちに与えた他の人たちを養う力のゆえに、「あなた方が、彼らに食べ物を与えなさい[1]」と言った。ところが彼らは、諸々のパンを与えることができることを否定しなかったが、それらがかなり少なく、イエスに従ってきた人たちを養うには十分でないと考えた。彼らは、イエスがそれぞれのパンあるいはみ言葉を取って、ご自分が望むぶんだけ拡大し、ご自分が養いたいと望むすべての人たちにとって十分なものにすることを観て取ることができず、「私たちは、ここで、五つのパンと二匹の魚しか持っていません[2]」と言った。「五つのパン」というのは、おそらく、(聖なる)諸々の文書の可感的な――それゆえに五つの感覚と同数の――諸々の言葉を暗示しているのだろう。「二匹の魚」は、表明された言葉と内心の言葉を――あたかも、(聖なる)諸々の文書の中にある諸々の感覚的な事柄という食べ物であるかのように――暗示しているのかもしれないし、あるいは、父と子に関して彼らに届いた理説を暗示しているのかもしれない。それで、復活した彼も、「焼かれた魚の一部を弟子たちから取って食べ[3]」、弟子たちが彼に「部分的に[4]」告げることができた父に関する神学[5]を受け入れたのである。我々は、「五つのパンと二匹の魚」に関する言葉によて以上のことを把握できた。しかし、「五つのパンと二匹の魚」を我々以上にもっと多く自分たちの許に集めることができる人たちは、さらにそれらの事柄に関しても、もっと優れた理解を与えることができるかもしれない。

 しかしながら、次のことに注意しなければならない:マタイとマルコとルカの許で[6]、弟子たちは「五つのパンと二匹の魚」を持っていると言っているが、「それら(のパン)が小麦製であるとも大麦製であるとも暗示していない。ところがヨハネだけは、それらのパンが大麦製であると言った。それでおそらく弟子たちも、ヨハネの福音の中では、自分たちが自分たちの許に諸々のパンを持っていることを認めず、その代わりヨハネの許で、「五つの大麦製のパンと二匹の小魚を持つ少年がここにいます[7]」と言ったのだろう。そして、五つのパンと二匹の魚が弟子たちによってイエスのところに運ばれないうちは、彼らは、(それらを)大きくすることも増やすこともなく、いっそう多くの人たちを養うこともできなかった。しかし、救い主はそれらを受け取ると、五千人を養うことになる諸々のパンと諸々の魚に混ぜ込まれる力を、あたかも彼の諸々の目の諸々の光線によって天から下すかのように、先ず「天を見上げた」。次に救い主は、「五つのパンと二匹の魚を祝福し」、言葉と祝福とによってそれらを大きくし増やした。さらに彼は、(それらを)割って弟子たちに分け与え、彼らが群衆の人たちに(それらを)渡すようにした[8]。そのとき、諸々のパンと諸々の魚は十分にあり、すべての人が食べて満腹し、祝福された諸々のパンの幾つかを食べ残すほどだった[9]。実にそれらは群衆たちにとってあり余るものであったため、群衆たちでなく、そうすることのできる弟子たちが余った諸々の破片を取り集め、諸々の余ったものを満たす籠の中に収めた。それらの籠は、数にして、イスラエルの諸部族と同じほどだった[10]。ところで、ヨセフについて『詩編』の中で、「彼の諸々の手は、籠の中で仕えた[11]」と書かれているのに対し、イエスの弟子たちについて、「(彼ら)十二人は、「余った諸々の破片を取り集めた」――彼らは、十二の籠の中に中途半端にではなく、一杯に収めたと私は思っている――書かれている。今に至るまで、そして代の終わりまで、「生けるパン[12]」の諸々の破片――群衆たちはそれらの破片を食べることができない――で一杯になった十二個の籠は、群衆たちよりも優れているイエスの弟子たちの許にある、と私は思っている。さらに、諸々の余ったもの(を収めた)十二の籠の以前の五つのパンから食べた者たちは、数字の五の同族だった。なぜなら彼らは諸々の感覚的なものにまで最初に到達したからである[13]。それゆえ彼らは、五千人であった[14]。あるいは、食べた者たちが諸々の感覚的なものにまで最初に到達したのは、彼らも、「天を見上げ、それらを祝福して割った[15]」方から食べさせられたからであり、しかも、子どもたちでも女たちでもなく、男たちだったからである[16]。実際、諸々の感覚的なものの中にも、様々な食べ物があり、それらの内のあるものは、「幼児に属する諸々の事柄を捨てた[17]」者たちのものであり、他のものは「キリストにおいてまだ幼児で肉的な者たち[18]」のものであると私は思っている。



[1] Mt.14,16.

[2] Mt.14,17.

[3] Cf.Lc.24,42-43.

[4] Cf.1Co.13,9.

[5] 原語はqeologi,aである。オリゲネスにとって「テオロギア」は、「オイコノミア」と共に、特別な意味を持つ(盗用厳禁)。

[6] Cf.Mt.14,17; Mc.6,38; Lc.9,13.

[7] Jn.6,9.

[8] Cf.Mt.14,19; Mc.6,41.

[9] Cf.Mt.14,20.

[10] Cf.Mt.14,20.

[11] Cf.Ps.80,7(LXX).

[12] Jn.6,51.

[13] Cf.Hom.Lv.III,7:「数字の五がしばしば使われていますが、それはほとんど常に五感を示すためです」。

[14] Cf.Mt.14,21.

[15] Mt.14,19.

[16] Cf.Mt.14,21.

[17] Cf.1Co.13,11.

[18] Cf.1Co.3,1.

 

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