我々が以上の事柄を取り上げたのは、次の言葉があったからである:すなわち、「イエスは、弟子たちを強いて群衆たちから分けて舟に乗せ、自分に先立って向こう岸に行かせた――その間に、彼が群衆たちを解散するために[1]」と。たしかに群衆たちは、「向こう岸に」去ることができなかった。なぜなら神秘的な意味で彼らは、「向こう岸の人たち[2]」と解釈されるヘブライ人でなかったからである。それは、イエスの弟子たちの業だった。その業とは、向こう岸へ去り、物体的な「諸々の見えるもの」を「諸々の一時的なもの」と見なして超越し、「目に見えない諸々の永遠なもの」に真っ先に行くことである。したがって、イエスによって解散されることは、群衆たちにとって、イエスから彼らに与えられた十分な善行であった。なぜなら彼らは、「群衆たち」であるがゆえに「向こう岸へ立ち去ること」ができなかったからである。この解散を発令する権限を持つのは、キリストだけである。そして人は、イエスが祝福する諸々のパンを前もって食べなければ、解放[3]されることができない。また人は、イエスが命じたように執り行い、「草の上に[4]」横にならなければ、イエスの「賛美の諸々のパン[5]」を食べることができない。それは、我々が示したとおりである。さらに群衆たちは、「荒れた場所に一人で退いた[6]」イエスの後を追って、自分たちの諸々の町から出て行かなければ、そのことすら行えない。そして、「群衆たちを解散した方がよいと弟子たちに先に求められた[7]」のに、彼は、賛美の諸々パンで養うまで、解散しなかった。しかし今や彼は、先に弟子たちを「強いて舟に乗せる」ことによって、(群衆たちを)解散する。しかも、下方のどこかの場所――なぜならその荒れ地は下方にあったからである――にいる彼らを解散した。そして彼自身は、「祈るために山の中に昇った[8]」。

また、次のことにも注目すべきである:すなわち、五千人が養われた後すぐに、イエスが「弟子たちを舟に乗せ、彼に先立って向こう岸に行くように強いた[9]。しかし弟子たちは、イエスに先立って向こう岸に行くことができなかった。彼らが海の真ん中に来ると、風が彼らに逆らったことによって舟が悩まされたので、彼らは恐れを抱いていた。それは、夜の第四の不寝番の頃、イエスが彼らの方に向かっていたときのことだった[10]。もしもイエスが、舟に乗り込まなかったら、航海している弟子たちに敵対していた風が止むこともなく[11]、航海している人たちが対岸に渡っていくこともなかったろう[12]。おそらく(イエスは)、ご自分を離れて対岸に去ることができないことを経験によって彼らに教えようと望んで、「舟に乗せ、彼に先立って向こう岸に行くように強いた[13]」のだろう。海の半分以上を横断できなかった彼らに(イエスは)現れて[14](聖文書に)書き記されている諸々の事柄を行い[15]、次のことを示したのである:向こう岸に進む人は、イエスがその人とともに航海することによって、そこに着くと。しかし、イエスが弟子たちに乗船するように強いたその舟は何だろうか。それはおそらく、諸々の試練と窮地との戦いだろう。人はみ言葉によって強いられ、いわば自分の意思に反してその戦いに入る。なぜなら救い主は、諸々の波と逆風とに悩まされた舟の中で弟子たちが鍛えられることを望んでいたからである。

 また、「直ぐに(イエスは)弟子たちを舟に乗せ、自分に先立って向こう岸に行くように強いた[16]」とあるが、マルコも表現を少し変えて、次のように書いて言っている:「直ぐに(イエスは)ご自分の弟子たちを舟に乗せ、ご自分に先立って向こう岸のベトサイダへ行くように強いた[17]」と。そこで先ず我々は、所有代名詞の付加[18]によってより限定された事柄を示しているマルコの僅かな変更に関する諸々の事柄を見てから、「彼は強いた」という言葉に立ち止まる必要がある。実際、「直ぐに(イエスは)弟子たちを強いた」という言葉から、同じ(限定された)事柄は示されない。ところが、マルコの許に書かれている「ご自分の弟子たちを」という言葉は、単純に「弟子たちを」と書かれている言葉に比べて何かもっと多くの事柄を含んでいる。おそらく、我々がその表現[19]にも目を留めるようにするために、イエスから離れ難かった弟子たちは、彼の許のいることを望んで、偶発的に彼から離れることができなかったのだろう。ところが、彼らが諸々の波と逆風の試練――もしも彼らがイエスと一緒にいれば、それは起こらないだろう――を得るべきだと判断した方は、自分から分離されて「舟に乗る」という強制を弟子たちに課した。そこで救い主は、弟子たちを諸々の試練の舟に乗せ、ご自分に先立って向こう岸に行き、諸々の窮地を克服してそれらを超えたところに立つように強いたのである。他方、「海の真ん中[20]」に至って、向こう岸に去ることを阻んだ諸々の波と諸々の逆風という諸々の試練の中にいた彼らは[21]、格闘すれども、イエスを離れては諸々の波と諸々の逆風に打ち勝って対岸に到達することができなかった。それゆえみ言葉は、向こう岸へ行こうと自分たちにできるすべての事柄を実践していた彼らを憐れみ、彼らの許へ行った――諸々の波も持たず、彼に敵対しようにも敵対できる風を持たない海の上を歩いて[22]。実際、「諸々の波の上を歩いて彼らの許へ行った」でなはなく、「諸々の水の上を(歩いて行った)」と書かれている。ペトロは言っている:「私があなたの許に行くように命じてください」――諸々の波の上をでなく、「諸々の水の上を歩いて[23]」と。諸々の始めのうち彼は、イエスが彼に「来なさい」と言ったので、「イエスに許へ行くために、舟から下りて」、諸々の波の上をでなく、「諸々の水の上を歩いた[24]」。ところが彼は疑ったので、「強い風を見た」――浅い信仰と懐疑を捨てた人にとって強い風はないけれども[25]。そしてイエスは、ペトロとともに舟に乗ると、「風はおさまった[26]」。なぜなら風は、イエスが(舟に)乗ると、もはやそれに対抗して働くことができなかったからである。



[1] Mt.14,22.

[2] 「彼岸の人たち」と訳してもよいだろうが、本節における訳文の統一を図ってみた。

[3] 訳文中の「解放」と「解散」の原語は、同じである。さすがにそれらを統一できなかった。

[4] Cf.Mt.14,19.

[5] Cf.2Co.10,16.

[6] Mt.14,13.

[7] Cf.Mt.14,15.

[8] Mt.14,23.

[9] Mt.14,22.

[10] Cf.Mt.14,24-26:「夜の第四の不寝番」(直訳)は、夜を四つに(宵・夜更け・暁・明け)分けたときの「夜明け」をさす。オリゲネスはこの四等分にも「霊的な意味」を見出している(次節参照)。

[11] Cf.Mt.14,32.

[12] Cf.Mt.14,34.

[13] Mt.14,22.

[14] Cf.Mc.6,47:訳者(朱門)は、愚直に訳している。

[15] Cf.Mt.14,26s.

[16] Mt.14,22.

[17] Mc.6,45.

[18] 「ご自分の弟子たち」の「ご自分の」を指す。

[19] 「彼は強いた」という表現を指す。

[20] Mc.6,47.

[21] Cf.Mt.14,24.

[22] Cf.Mt.14,26.

[23] Mt.14,28.

[24] Mt.14,29.

[25] Cf.Mt.14,30-31.

[26] Mt.14,32.

 

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