「そのとき、彼の許にエルサレムから、ファリサイ派の人たちと律法学者たちが来て言った:『何ゆえに、あなたの弟子たちは、年長者たちの伝承を破るのか。彼らは、パンを食べるときに、諸々の手を洗わない』[1]」。

どのような時期に、「イエスの許にエルサレムからファリサイ派の人たちと律法学者たちとが来て、「何ゆえに、あなたの弟子たちは年長者たちの伝承を破るのか」云々といったのかを注意深く見る人は、次のことを知るだろう:すなわち、必要に駆られたマタイは、エルサレムから来たファリサイ派の人たちと律法学者の人たちがイエスに近づいて、上に提示した諸々の事柄を彼に尋ねたと単純に書いたのではなく、「その時、彼の許に、エルサレムから彼らが近づいた」と書いたことを。いったい「その時」とは、どのような時かが理解されねばならない。すなわち、イエスが船に乗ってから風が凪ぎ[2]、「イエスと彼の弟子たちが、船で(海を)渡り、ゲネサレトという土地に入った[3]」とき、「その場所の男たちが彼を認めて、その付近全体の中に(伝令を送って)知らせ、彼の許に状態の悪いすべての人を連れてきて、彼らが彼の外套の裾にだけでも触れることを求め、触れた限りの人たちは救われた[4]」とき、その時、「彼の許にエルサレムからファリサイ派の人たちと律法学者たちが近づいたのである[5]」。しかし彼らは、「彼の外套の裾にだけでも[6]」触れた人たちを癒したイエスの力に驚嘆したのでなく、非難欲に駆られて、神の掟の違反についてでなく、ユダヤ人たちの長老たちの一つの伝承について、主に向かって苦情を述べたのである。

そしておそらく、非難好きな者たちの苦情は、神の諸々の掟の違反に関するいかなる非難の口実も、ファリサイ派の人たちと律法学者たちとに与えなかったイエスの弟子たちの用心深さを示しているだろう。実際、もしも彼らが、苦情の対象となっている者たちを把握することができ、彼らが神の掟を違反していることを証明できるなら、彼ら(ファリサイ派の人たちと律法学者たち)は、イエスの弟子たちの違反に関する苦情――彼らが長老たちの掟を違反しているという苦情――を持ち出さなかっただろう。

 しかし、以上の諸々の事柄が、モーセの律法は文字通りに遵守されるべきだということを準備している――なぜならイエスの弟子たちは、その時までそれを守っていたからであると、あなたは理解してはならない。実に、人間たちのための受難において「私たちのための呪いとなった」彼は、受難によって初めて「我々を律法の呪いから贖い出した[7]」からである。とはいえ、パウロも適切に、「ユダヤ人たちを獲得するために、ユダヤ人たちの対してはユダヤ人[8]」になったようになったのであるから、それと同様に、ユダヤ人たちの中で諸々の暮らしをしていた使徒たちが、たとえ律法の諸々の霊的な事柄を理解しているとしても、順応性を発揮しても何がおかしいだろうか――パウロは、テモテに割礼を施し[9]、使徒たちの諸々の言行の中に書かれているように、何らかの律法的な祈願に即して生け贄を捧げたりもした[10]。ところが、神の掟に関してイエスの弟子たちに対して何一つ苦情を述べず、ただ長老たちの一つの伝承に関してのみ苦情を述べた彼らは、まったくもって非難好きな者でたちであることは明らかである。特にその非難好きは、彼らが、悪い状態から癒された人たち自身の許で非難を持ち出していることの内に明白に現れている。彼らは、弟子たちに対して非難しているように見せかけて、真実には師を中傷しようとしていたからである。実に、長老たちの伝承というのは、敬神のために(手を)洗うことは必要であるということだった。すなわち彼らは、パンを食べる前に洗われなかった諸々の手は俗で不浄なものであるが[11]、水で洗浄された諸々の手は――象徴的にでなく、文字通りのモーセの律法に比例して――清く聖なるものになると考えていた。ところが我々は、彼らの許にある「長老たちの伝承[12]」に従ってではなく、我々自身の諸々の行いを理に適った仕方で浄化し、そのようにして諸々の魂の諸々の手を洗おうと努める[13]――我々のための友人であることを望んだイエスに、我々が「三つのパン」を求め、それらを食べようとするときに[14]。実際、俗で、洗われておらず、清くない諸々の手で、それらのパンに参与すべきでない[15]



[1] Mt.15,1-2.

[2] Cf.Mt.14,32.

[3] Mt.14,34.

[4] Mt.14,35-36.

[5] Mt.15,1.

[6] Mt.14,36.

[7] Ga.3,13.

[8] 1Co.9,20.

[9] Cf.Ac.16,3.

[10] Cf.Ac.18,18; 21,23.

[11] Cf.Mc.7,2.

[12] Mt.15,2.

[13] ヒエロニムスも、この一文をほぼ文字通りに引用している。しかし、それは今で言う無断引用で、彼はしばしば、オリゲネスの作品を無記名で引用している。委細省略。

[14] Cf.Lc.11,5.

[15] Cf.Mc.7,2.

 

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