ところでイエスは、ユダヤ人たちの「長老たちの伝承[1]」に関して彼らを非難したのではく、極めて枢要な「神の諸々の掟[2]」の中の二つに関して彼らを非難している。それらの内の一方は、十戒の第五戒で、次のような内容になっている:「あなたは、あなたの父とあなたの母を敬いなさい――あなたが幸いになり、主なるあなたの神があなたに与える土地で、なたが長寿者になるために[3]」。他の掟は、『レビ記』の中に次のような仕方で書かれている:「もしも人間が、自分の父と自分の母を悪く言うなら、その人は死に定められる。自分の父や自分の母を悪く言ったなら、罰を受けるだろう[4]」と。しかし我々は、マタイが提示した「父や母をののしる者は死をもって終わらされねばならない[5]」という表現それ自体を考察したいと願っている。そこであなたは、もしかするとそれが次の箇所から取られて、ここに書かれているのではないか確定すべきである:すなわち「自分の父や自分の母を打つ者は、死をもって終わらされねばならない[6]」と、「自分の父や自分の母をののしる者は、死をもって終わらされねばならない[7]」とある。とにかく、二つの掟に関して律法から取られた諸々の表現はそのようになっていた。しかしマタイは、それらの表現そのものを引用せず、部分的かつ要約的に引用した。

 しかし救い主は、エルサレムから来たファリサイ派の人たちと律法学者たちに対して、何を非難しているのか――彼らは、自分たちの伝承のゆえに神の掟を踏み越えていると言うことによって。そのことが考察されねばならない。さて神は、「あなたは、あなたの父とあなたの母を敬いなさい[8]」と言って、彼らから生まれた人が、親たちに然るべき敬意を向けることを教えている。親たちへのその敬意の一部は、衣食住のために、そして、人が自分の親たちを喜ばすことができるようなその他のものために、必要な諸々の生活必需品を彼らと分かち合うことであった。しかし、ファリサイ派の人たちと律法学者たちは、律法に対立するそのような伝承を持ち出した――その伝承は、福音の中により不明瞭に置かれているため、もしもヘブライ人たちの誰かが、その箇所に関する次のような諸々の事柄を我々に示さなかったなら、我々自身もその伝承に注目しなかっただろう:すなわち(その諸々の事柄とは)(そのヘブライ人が)言うには、時として貸し主たちは、負債を返却することができるのに、返却しようとしない扱いにくい借り主たち借り主たちに出会うと、その債務をその日暮らしの人たちの基金に振り替えた。そして彼らのために、賽銭箱の中に、彼らと分かち合いたちと望む人たちのひとり一人によって(その債務が)投げ込まれた[9]――そこで時として彼らは、債務者たちに、自国の言葉で次のように言った:「あなたが私に負っているものは、コルバンすなわち供え物である[10]。なぜなら私は、それを、その日暮らしの人たちのために、神への信心に基づく基金に振り替えたからである」と。こうして借り主は、もはや人間たちに対してでなく、神と神への信心とに対して債務を負っている者として、たとえ望まなくとも、いわばその負債を返却する窮地に立たされた。すなわち彼は、もはや貸し主に債務を返却するのでなく、貸し主の名によってその日暮らしの人たちの基金のために神に債務を返却する窮地に立たされた。実に、貸し主が借り主に対して行っていたそのことを、時に、子どもたちの幾人かが親たちに行い、彼らに言った:「父よ、あるいは、母よ。私があなたに負っている物を、あなたはコルバンから、すなわち、神に献げられたその日暮らしの人たちの基金の中から取り立てるべきだと心得てください[11]」と。次に、彼らに与えられるものは、神に捧げられたコルバンであると聞いた親たちは、たとえ諸々の必需品にまったく事欠いていたとしても、子どもたちから受け取ることを望まなかった。そこで、長老者たちは、(ユダヤの)民の出身者たちに対し、そのような伝承を語り、次のように言ったのである:「父や母に向かって、彼らの誰かに与えられるべきものはコルバンであり、供え物であると言う者は誰であれ[12]、もはや父や母に対して、生活の諸々の必要のための諸々の物品の贈与における債務者ではない」と。

 そこで救い主は、そのような伝承を、健全でなく、神の掟に反すると非難した。実際、もしも神が「あなたは、父と母を敬いなさい[13]」と言う一方で、伝承が「神にコルバンとして、産みの親たちに与えられるべき物を献げた人に、父や母を贈与によって敬う義務はない[14]」と言ったとすれば、親たちの敬意に関する神の掟は、ファリサイ派の人たちと律法学者たちの伝承によって破棄されたことは明らかである[15]。なぜなら彼らの伝承は、親たちが受け取るべき物を神に一たび献げた者は、父と母をもはや敬う必要はないと言っているからである。ファリサイ派の人たちは実に金銭欲が強かった。そこで彼らは、その日暮らしの人たちを口実にして、人の親たちに与えられるべき諸々の物を取るために、そのような諸々の事柄を教えたのである。福音も、彼らの金銭欲を証して、「金銭欲の強いファリサイ派の人たちは、それらすべてを聞いて、彼をあざ笑った[16]」と言っている。

 したがって、我々の内で長老たちと言われている人たちの誰か、あるいは時たま民の指導者たちと言われる人たちの誰かが、公共の名において、贈与者たちの近親者たちによりも、その日暮らしの人たちに(必需品を)与えることを望むなら――ただしそれは、彼らが、諸々の必需品に事欠いており、しかも贈与者たちが両者に贈与することができない場合である――、その人は、自分たちの「伝承のゆえに神の言葉[17]」を破棄して、救い主によって「偽善者たち[18]」と非難されたファリサイ派の人たちの兄弟であると正当に言われるだろう。しかし、その日暮らしの人たちを口実にして意欲的に何らかの品々を取り上げて、「他の人たちの信心を儲けものである[19]」と思い込むことを、以上の諸々の事柄が厳しく阻止しているばかりでなく、裏切り者のユダについて書かれている諸々の事柄もそれを阻止している。ユダは、見たところ、その日暮らしの人たちのための長老であったが、憤慨して、「その香油は、三百デナリで売れて、物乞いたちに与えられたのに[20]」と言った。ところが真実には、「彼は盗人だった。彼は、賽銭箱を持っていながら、投げ入れられた諸々の物を拾い上げた[21]」。したがって、もしもある人が今でも、教会の賽銭箱を持っていながら、その日暮らしの人たちのために、ユダのように物言いし、投げ込まれた諸々の物を拾い上げるなら、それらのことを行ったユダと境遇を共にするだろう。彼の魂の中で壊疽のようにはびこっていたそれらの事柄のゆえに、悪魔は、彼の心の中に救い主を裏切ることを投げ入れた[22]。そして彼が、そのための「火矢[23]」を受け取った後、悪魔は彼の魂の中に入り込み、彼を占有した[24]。そして、おそらく使徒が「すべての悪の根は、金銭欲です[25]」と言うとき、ユダの金銭欲のゆえに(そう)言ったのだろう。なぜなら彼の金銭欲が、イエスに対するすべての悪の根だったからである。



[1] Cf.Mt.15,2.

[2] Cf.Mt.15,3.

[3] Ex.20,12.

[4] Lv.20,9.

[5] Mt.15,4.

[6] Ex.21,15.

[7] Mt.15,4.

[8] Ex.20,12.

[9] Cf.Mc.12,43.

[10] Cf.Mc.7,11.

[11] Cf.Mt.15,3; Mc.7,11.

[12] Cf.Mt.15,5-6; Mc.7,11-12.

[13] Ex.20,12.

[14] Cf.Mt.15,5-6.

[15] Cf.Mt.15,6.

[16] Lc.16,14.

[17] Mt.15,6.

[18] Mt.15,7.

[19] Cf.1Tm.6,5.

[20] Mc.14,5.

[21] Jn.12,6.

[22] Cf.Jn.13,2.

[23] Cf.Ep.6,16.

[24] Cf.Lc.22,3; Jn.13,27.

[25] 1Tm.6,10.

 

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