17 確かに、(これまで考察してきた)以上の言葉は、たとえ話として言われたということにしましょう。そして私たちは、(聖書の言葉に)立ち帰って、持てる力の限りを尽くして、そのたとえ話を探求することに致しましょう。――もしも私たちが、知恵の霊によって助けられて、たとえ話について何か深遠な事柄を見出だして、(それを)確立し、そして理に適った仕方で沈黙を守り、或いは暗示し、或いは明示することが出来るのであれば――。

 さて、諸々の天の国は、支配する王の観点からは、人間である王にたとえられ、その王と共に支配する者の観点からは、王の息子にたとえられ、支配される人々の観点からは、僕たちと、婚礼に招かれた人たちにたとえられました。(しかし)婚礼に招かれた人たちの内で、ある者たちは(会場に)入ろうとせず、またある者たちは各自の畑や商売のために立ち去ってしまいました。そして他の人たちは、僕たちを捕まえて、辱め、殺してしまったのです。更に、支配される人々の内には、王の軍隊や、婚礼が食卓に着く人で一杯になるまでに外の通りから集められた善人たちや悪人たち、また食卓に着いている人たちの中で婚礼の礼服を着ていない者や、婚礼の礼服を着ていない者の手足を縛って外の闇に放り出すように命じられた召し使いたちがいます。

 しかしながら、「諸々の天の国は」、人間という言葉を付け加えずに、「王にたとえられた」と書かれる可能性もあり増した。しかし「人間である」という言葉も付け加えられていますから、そのことについても説明しなければなりません。それは、こうすれば明らかになるのではないかと私には思われます。

 私たちの先人の一人は、聖なる律法の諸書を比喩とみなして、神があたかも人間的な感情を持つお方であるかのように表している言葉と、彼の神性を明示している言葉とを詳しく説明しています。その人は、人々を配慮して下さる神が人間であるかのように言われていることに関してある一つの言葉を取り扱っていました。それは、「主なるあなたの神は、ある人間が自分の息子を背負うように、あなたを背負われたのです」(Dt.1,31;cf.Ac.13,18)という言葉です。また、神が人間のように有るのではないということに関しては、「神は、人間のように偽らない」(Nb.23,19)という言葉を取り扱っていました。

 

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