19   ですから、私たちが人間である限り、そして神の思い遣りの(Rm.2,4)豊かさと、とても大きな思い遣り(Ps.30,20)――その思い遣りは私たちが観て、損なわないように神によって隠されています――とが、私たちにとって有益なものではない限り、諸々の天の国は必然的に人間である王にたとえられねばなりませんでした。それは、神が人間として人間たちにお語りになって、神よって配慮されることを受け入れることができない人間たちを配慮するためでした。とは言え神は、預言者たちを通してお語りになるときも、人間たちを配慮なさるときも、あらゆる点で神のまま留まっておられます。そして嫉妬や争いその他の諸々の苦しみや罪が止み、人間(の思い)に従って(1 Co.3,3)歩むことが止んで、私たちが、「私は言った。『あなた方は神々でありあなた方は皆、いと高き方の子らである』」(Ps.81,6)という言葉を、神から或いは神のキリストから聞くに相応しい者となり、私たちがもはや、「あなた方はしかし、人間として死ぬでしょう」(Ps.81,7)と言われる所以のことを行なわなくなれば、人間にたとえられた諸々の天の国は止むでしょう。しかし私は、諸々の天の国が人間である王にたとえられることが止むばかりでなく、罪人である人間が必要とするその他の無数のことが止むだろうと考えています。例えば、『ホセア書』では次ぎのようなことが書き記されております。「私はエフライムに対して獅子のようであり、ユダの家に対してはライオンのようである」(Os.5,14)と。また別の箇所では、「私は彼らに、さまよえる熊として会うだろう」(Os.13,8)と言っております。ですから、然々のことを行なってきた人たちがもはや、獅子としての神、ライオンとしての神、さまよえる熊としての神を必要としなくなることによって、神ご自身がもはや、そのような類いのものとしての神を必要とする人たちをお持ちにならなくなって、ご自身を「有りのままに」(1 Jn.3,2)顕らかにされるとき、神は、いわば獅子でありライオンでありさまよえる熊であることを止めるでしょう。私はまた、「私たちの神は焼き尽くす火である」(Dt.4,24)という言葉もそうした意味で理解しています。と申しますのは、私たちの内に焼き尽くされるに相応しいものがある限り、「私たちの神は焼き尽くす火である」からです。そして焼き尽くされるに相応しいものによって焼き尽くされるべく生み出されたものを焼き尽くす火によって、焼き尽くされるべきものが焼き尽くされるとき、「私たちの神は」もはや「焼き尽くす火である」ことはなくなるでしょう。ただヨハネが言ったように、(私たちの神は)光になるでしょう。彼は、「神は光りである」(1 Jn.1,5)と言っています。

 しかしそうしたことが疑問視されるのであれば、あなたはヨハネの公同書簡からの次ぎの言葉をこうした意味で解釈できないか検討して下さい。こうあります。「愛する皆さん、私たちはいま、神の子らですが、将来私たちが何になるかはまだ顕らかにされていません。しかし私たちは、それが顕らかにされとき、私たちが神に似た者になるだろうということを知っています。なぜなら私たちは神を有りのままに観るからです」(1 Jn.1,5)。実際、たとえ私たちがいま、精神と心とによって神を観るに相応しい者になっているとしても、私たちは神を「有りのままに」観ているのではありません。私たちは神を、私たちのオイコノミアのために私たちに生成されるままに観ているのです。しかし物事の終極の時、「神がご自分の聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた万物の回復」(Ac.3,21)の時には、私たちは神を、今のように有りのままでないものを観るのではなく、そのとき相応しいように有りのままを観ることでしょう。

 

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