20 さて、「諸々の天の国は人間である王にたとえられました」という言葉に関して以上のことを述べましたので、私たちはまた、救い主がご自分を人類の子あるいは人間の子とお呼びになったことの理由も見出だすことができます。救い主はご自分をそう呼ぶことで次のことを明らかにして下さっています。

 すなわち、人間たちを配慮する神がたとえ話の中でいわば人間だと言われ、またたぶんある意味で正しく人間にも成るのと同じように、救い主もまた、際立った仕方では神の御子であり神(Jn.I,1)、また「その愛の御子」(Col.1,13)であり「見えざる神の像」(Col.1,15)ですが、際立った仕方で有ることにお留まりにならずに、――たとえ話の中では人間であると言われますが、しかし神である方の――オイコノミアに即して、人間の子であると言われます。(救い主はその際)人間たちを配慮するときにたとえ話の中で人間であると言われ、またある意味で人間にも成る神に倣っているのです。

しかし誰かある人間を探し求めては、救い主はその人間の子であると言ってはなりません。神の観念と神は人間であると言うたとえ話とに立脚しながら、救い主がご自分を人間の子であるといっていることを賢明に理解すべきです。

 確かに私たち人間のもとでは、諸々の天の国は人間である王にたとえられました。しかし聖書によると神々であると言われる者たちの間では――彼らの「集いの中に神は居て、その只中で神々を」裁かれるが(Ps.81,1)――、諸々の天の国は神である王に似ているのです。

 

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