10 律法の中に、「それゆえ人は、父と母を離れ、自分の妻に結ばれ、両者は一つの肉になる[1]」と書かれています。それらの言葉が諸々の比喩的な神秘を含んでいることを、パウロは、その書簡の中でその箇所を例として引きながら表明しています。彼は言います:「この神秘は偉大です。私は、キリストと教会とにおいて言っています[2]」。しかしそれは、文字に従って守られねばならないことも、主である救い主ご自身が教えています。彼は言います:「こう書かれている。『それゆえ人は、父と母を離れ、自分の妻に結ばれ、両者は一つの肉になる。したがって、神が結び合わせたのを、人間が離すべきではない』[3]」と。たしかに救い主は、「したがって、神が結び合わせたものを、人間が離すべきではない」と付け加えることによって、それらの言葉が文字に従っても守られるべきことを明示しています。さらに使徒は、他の箇所で、「アブラハムには二人の息子――一人は端女から、一人は自由の女からの息子――がいました[4]」と言っていますが、そのことは文字に従って存立すべきことを誰が疑うでしょうか。なぜなら、サライから出たイサクとハガルから出たイシュマエルがアブラハムの息子であったのは確実だからです[5]。しかし使徒は、それらの言葉に付け加え、「それらの言葉は比喩的です[6]」と言い、それらの言葉を「二つの契約」に転換し、あたかも自由のために出産したサライの子孫は新しい契約の自由人たちとであると言い、あたかも「隷属のために産んだ」ハガルの子孫を、地上のエルサレムの子らと呼んでいます[7]



[1] Gn.2,24.

[2] Ep.5,32.

[3] Cf.Mt.19,5-6.

[4] Ga.4,22.

[5] Cf.Gn.21,3; 16,5; Hom.Gn.VII, 2 (SC 7bis, pp.196-198)

[6] Ga.4,24.

[7] Cf.Ga.4,24.26.

 

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