25 こうして、律法の中に投影された一切の事柄は――なぜなら、「律法は将来の諸々の善き事柄の影を持っている[1]」からです――、そのように或る仕方で、み使いたちの諸々の奉仕を通して、「将来の諸々の善き事柄」の真理において全うされるでしょう。その結果、「肉によるイスラエル[2]」と呼ばれるあのイスラエルの内に予め示された諸々の事柄は、天の真のイスラエル人たちの内で成就されるでしょう。実際、イスラエルという名は、み使いの諸々の位階にまで及んでいます。あるいは、いっそう真に「神を見る精神[3]」である人たちこそ、いっそう真実にイスラエルと呼ばれるでしょう。なぜなら、イスラエルはそのように解釈されるからです。もちろん私は、次のように考えています:(聖なる)諸文書の中に使われているのを私たちが見出す諸民族や諸君主の諸々の名称が――たとえばエジプトの王ファラオやバビロニアあるいはアッシリアのネブカドネツァルのように――疑いもなく悪いみ使いたちや逆らう諸力に関係づけられているのと同じように、私たちは、聖なる人々や信心深い民族について書かれている諸々の事柄を、聖なるみ使いたちや善意ある諸力に関係づけるべきです。不敬虔の民族の王が、(聖なる)諸文書によって何らかの悪意ある力に関係づけれられていることについて、あなたは、イザヤがネブカドネツァルについてどのように言っているかをお聞きください:「私は、悪意ある民族の上に、アッシリア人たちの君主の上に、剣を伸ばす。なぜなら彼は、次のように言っていからだ:『私は、私の力によって行う。私の知性の知恵によって諸民族の諸々の境を壊し、彼らの力を奪う』と[4]」。他の箇所でも、或る民族の王について語っているかのように、彼は言っています:「暁に昇っていたルシフェルは、どうして天から落ちてしまったのか[5]」と。したがって、真理の理拠が、それらすべての事柄を悪意ある力の或るみ使いたちに関係づけられることを強いるなら、どうして同じ論理的必然性によって、君主たちであれ諸民族であれ善良な人たちに関して記されている諸々の事柄が――上で私たちが述べたように――善良な諸力のみ使いたちと奉仕者たちに関係づけられないのでしょうか。



[1] He.10,1.

[2] 1Co.10,18.

[3] mens videns Deum:「イスラエル」(Israel)の語源的解釈で、オリゲネスはそれを頻繁に使っている。

[4] Cf.Is.10,12-13.

[5] Cf.Is.14,12.

 

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