27 とはいえ、初めに私たちが言いましたように、み使いたちも諸々の初物を捧げます。私が思いますに、それぞれのみ使いヶ各自の民の初物を捧げ、さらに、それぞれのみ使いが各自の教会の初物を捧げます。それらのみ使いたちに宛てて、ヨハネも『黙示録』の中で書いているように見えます。たとえば彼は、エフェソの人たち[1]やスミルナの人たち[2]やラオディキアの人たち[3]の教会や、(同書に)書かれている他の人たちの教会のみ使いに書いています。ですからみ使いたちのそれぞれが、自分に管理を任されたそれぞれの教会や国民の初物を捧げます。その他、すべての諸国民の中からあらゆる信者を集めるみ使いがいるかもしれません。そこで私たちは考えてみましょう。たとえば、キリスト者たちがまだいない或る町に或る人が訪れ、教え始め、働き、指導し、信仰へと導くなら、その人は後に、彼が教えた人たちの指導者[4]となり司教になります。それと同じように、様々な国民の中から集め、各自の労働と奉仕によって進歩させた人たちの聖なるみ使いたちも、将来、彼らの指導者となるのではないでしょうか。その結果キリストは、王と言われるだけでなく「王たちの王」と言われ、主と言われるだけでなく「支配者たちの主」と言われるのではないでしょうか[5]。実際、もしも彼らが、彼らが統治し、進歩させた人たちの諸王となるなら、彼らは当然、或る者たちを大祭司に捧げ、他方で或る者たちを大祭司の子らに[6]、すなわち、いっそう優れた諸力と大天使たちとに捧げます。さらに彼らは、レビ人たちにも、すなわちいくらか劣った者たちにも捧げます[7]。だたし、イスラエルの人たちの場合と同様に、天使たちの諸々の位階も、そのような様相の内に区別されているのが必然であると見えるのであれば。というのも、イスラエルの人たちが、「天の諸々の事柄の影と写しに仕えている[8]」と言われているからです。



[1] Cf.Ap.1,1.

[2] Cf.Ap.1,8.

[3] Cf.Ap.3,14.

[4] 原語はprincepsである。

[5] Cf.Ap.19,16.

[6] Cf.Nb.18,24.

[7] Cf.Nb.18,8s.

[8] He.8,5.

 

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