28 したがって私たちは、次のように言うことができます。おそらく将来、すべての実りが広場に集められたとき、或る人たちは大祭司、いや今度は、あの真の大祭司キリストの取り分となるでしょう。他の人たちは、レビ人たち、すなわち既に私たちが申したように、み使いたちや他の天の諸力に託された取り分となるでしょう。しかし私は、ある人たちが相変わらず、人間たちの取り分になるだろうと考えています。その人間たちというのは、少なくともこの生活において、真の神の思慮深く忠実な会計係たちであった人たちです。私は、そのことが、『福音』の中で主によって示されていると思っています。主は、五ムナを託されて、それらから十ムナをつくった人に言っています:「あなたは、十の町を治める権能を持ちなさい[1]」。一ムナを託されて、それから五ムナをつくった人に言っています:「あなたは、五つの町を治める権能を持ちなさい[2]」と。諸々の町を治めるこの権能は、諸々の魂の舵取り以外の何であると理解すべきでしょうか。そのことから、次のことが私には考えられます。すなわち、み使いたち自身の間でも、或るみ使いたちは他のみ使いたちを治める権能と優越権を行使しており、他のみ使いたちは下位にあり、その権能に従っているとするのは根拠のないことではないと――それはちょうど、十の町を治める権能を与えられた人や、五つの町を治める権能を与えられた人が、自分に与えられた金銭を増やしたという功績なしには、そのような権能に至らなかったのと同じように。実際、神の許では、すべての事柄が(それなりの)根拠と裁きの下に起こります。しかも(無償の)恩恵に従ってではなく、功績に応じて、或る者は多くの者たちの支配者に立てられ、或る者はその支配下に置かれます。



[1] Lc.19,17.

[2] Lc.19,19.

 

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