31 み使いたちは私たちの中から諸々の初物を捧げます。彼らは各々、熱心かつ慎重に諸国の民の諸々の誤りから神へと回心させた人たちを耕します。そして各人は、あれこれのみ使いの分け前ないしは配慮の下にあります――この代の始めからのように。つまり、「神は、アダムの子らを散らしたとき、神のみ使いたちの数に従って諸国の民の諸々の境を定めた[1]」とあります。個々の民は、あれこれのみ使いの下に置かれました。しかし、一つの民がイスラエルが選ばれ、「主の持ち分」となり、「彼の嗣業の地所[2]」となりました。同じように、この世の終わりと来るべき他の世の始まりにおいても[3]、「いと高き方は」、再び、「アダムの子らを分ける」と私は思っています。そして、「神ご自身を見る」ことができるほど「心の清い[4]」人になることができ、主の持ち分となることができなかった人たちも、聖なるみ使いたちを見ることはできるかもしれませんが、神のみ使いたちの数に従って「彼の民ヤコブ」となり、「彼の嗣業の地所イスラエル[5]」となるでしょう。



[1] Dt.32,9.

[2] Dt.32,9.

[3] この語句の原文は次の通り… ita credo et in fine huius mundi atque initio alterius saeculum futurum,…ここには、オリゲネスが前提にする当時の世界観(仮説)が反映している。それは、彼の著述活動の初期から変わらない世界観である(盗用厳禁)。委細省略。

[4] Mt.5,8.

[5] Cf.Dt.32,9.

 

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