38 次に(聖文書は)、「あなたと、あなたの後のあなたの息子たちの誉れのために、私はそれらを永遠の定めとして与える[1]」と言っています。誰に(与えるのでしょう)か。あなたは疑いもなく、アロンだと答えるでしょう。しかし、続くみ言葉は、むしろ、大祭司キリストと、彼の息子たち、すなわち、使徒たちと諸教会の教師たちについて理解されるように、(聖文書は)促しています。実際、それは「永遠の定め」と言っています。そもそも、見えるものがどうして永遠なものであり得るでしょうか。なぜなら使徒はこう言っているからです:「見られる諸々の事柄は一時的なものです。しかし、見られない諸々の事柄は永遠なものです[2]」と。ですから、もしもアロンに捧げられる諸々の初物が見えるものであれば、それらは、見えるものなわけですから、永遠なものであると言われることができません。同様に、見える割礼も、見える無酵母パンも、見える過越も、永遠なものでなく、一時的なものであるのは必然です。なぜなら「見える諸々の事柄は一時的なもの」だからです。それに対し、「見られない諸々の事柄が永遠である」なら、隠されたものの内にある見えない割礼も永遠です[3]。「誠実さと真理の無酵母パン[4]」それ自体も、「見られない諸々の事柄」に属しますから、永遠なものです。同じように、それら(の捧げ物)は――「明らかなものの内にあるユダヤ人」でなく、「隠されたものの内にあるユダヤ人」である人にとって、「文字よってではなく、霊によって」、「より内的な人間として」律法を守る人にとって[5]――「永遠の定め」だと言われます[6]



[1] Nb.18,8.

[2] 2Co.4,18.

[3] Cf.Rm.2,29.

[4] 1Co.5,8.

[5] Cf.Rm.2,28-29 et 7,22.

[6] この訳文を見て、執筆や講義などを行った者は、その旨を読者や聴講者に告げなさい。

 

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