39 「そしてこれは、聖化された諸々の聖なるものの中からあなたに与えられる[1]」とあります。私はそれらの箇所に差し掛かったとき、諸々の生け贄について、「聖化された諸々の聖なるもの」とはいったい何であるかを幾度も自問しました。そして私には、いわば聖化されることなき諸々の聖なるものと対比して、ここで、聖化された諸々の聖なるものが言われたのだと思われます。なぜなら私は、聖霊は聖化されずに聖であると思っているからです。実際、かつてなかった聖化が外から、あるいは他所からそれに近づいたのではありません。聖霊は常に聖であり、その聖化は始まりを受け取りませんでした。また、父と子についても同様に理解されるべきです。すなわち、三位の実体だけが、外から受け取られた聖化によってではなく、その本性によって聖なるものなのです。それに対し、一切の被造物は、聖霊の恩寵よってか、諸々の功績によって「聖化された諸々の聖なるもの」になると言われるべきです。ですから私たちは、「あなた方は聖なるものでありなさい。なぜなら私も聖なるものだからである[2]」と書かれていることも、そのように読みます。(ここで)直ちに、神と人間たちとにおける聖化の類似性が考えられてはいけません。実際、神について、彼は「聖なるもの」である言われていますが、人間たちは、常に(聖なるもの)ではなったかのように、「聖なるものになりなさい」と命じられています。そもそも、私たちが「あなた方は聖なるものでありなさい」と読んでいるこのギリシア語の言葉は、むしろ、「あなた方は聖なるものなりなさい」ということを意味しています。ところが、私たちの翻訳者たちは、「あなた方は(聖なるものに)なりなさい」と言葉の代わりに、「あなた方は(聖なるもので)ありなさい」という言葉を無差別に置いてしまいました[3]。そのようなわけで私たちの一人ひとりは、神の畏怖に至り、神的な教えをみずからの内に受け入れることによって、また神にみずからを委ねることによって――ただし、心から委ねるなら――、「聖なるもの」になります。しかし彼は、「聖化された聖なるもの」と言われ得ますが、真にそして常に「聖なる方」は、神だけです[4]



[1] Nb.18,9.

[2] Cf.Lv.20,7.

[3] これは翻訳者ルフィヌスの加筆ではなく、オリゲネスの原文に由来する。本文中の「翻訳者たち」は、いわゆるギリシア語訳聖書『七十人訳』の翻訳者たちである。オリゲネスは、彼が編纂した『ヘクサプラ』に、『レビ記』20,7の他の訳として、「あなた方は聖なるものとなりなさい」を載せている。

[4] この節の無断利用厳禁

 

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