しかし、「あなたは殺してはならない。姦淫をしてはならない。盗んではならない[1]」云々と(聖文書が)言っている箇所の中に、私たちは、それらの事柄の中で(聖文書が)律法という表題を前置きしているのを見出しません。むしろそれらは、諸々の定めであるように見えます[2]。したがって、福音の弟子たちの許では()文書のその箇所は廃止されるものではなく、完成されるべきものです[3]。なぜなら、いま私が述べたように、定めではなく、「律法が将来の諸々の善い事柄の影を持っている[4]」と言われているからです。それゆえ、それらの事柄は、我々によって文字通りに遵守されねばなりません。他の箇所でも、「あなたは、正しい事柄を正しく追及しなさい[5](と言われています)。文字が既に建徳的なのに、それらの事柄の中に比喩を探す必要がどうしてあるでしょうか[6]



[1] Rm.13,9.

[2] なお訳者(朱門)は、右のラテン語に括弧( )に示した訳語を当てている:lex(律法)mandata(諸々の定め)justificationes(諸々の義化)praecepta(諸々の掟)testimonia(諸々の戒め)iudicia(諸々の裁き)

[3] Cf.Mt.5,17.1

[4] He.10,1.

[5] Cf.1Tm.6,11.

[6] Et ideo haec nobis secundum litteram cutodienda sunt. … Quid opus est in his allegoriam quaerere, cum aedificet etiam littera? なお本節の訳文を使って著述する者は、その旨をその営為の内に表示しなさい。

 

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