14 次に、「そして彼らは、井戸からマタナに、マタナからナハリエルに、ナハリエルからバモトに、バモトからモアブの野の内にある森――これは、荒れ野の表を見下ろす切り立った山の頂のふもとにある――に進んだ[1]」と(聖文書は)言っています。それらの名前は、諸々の場所の呼称であるように見えますが、それらが固有の言語の中で表示する諸々の意味からは、諸々の呼称よりもむしろ一連の神秘的な諸々の事柄を示しているように見えます[2]。実際、「彼らは、井戸から進み、マタナにきた」と(聖文書は)言っています。マタナとは、すなわち、「彼らの諸々の贈り物」と解釈されます。あなたは、次のことを見るでしょう:もしも人が、「王たちと司たちが掘った[3]」あの井戸から飲んだなら、その人は直ちに、神に捧げるべき諸々の贈り物を持つ段階に進むと。しかし、人間が神に捧げるべきものとは何でしょうか。それは、律法の中に書かれていることそのものです:「私の諸々の捧げ物、私の諸々の賜物[4]」。したがって、神が与えた諸々の物の中から、人間たちは神に捧げます。いったい何を、神は人間に与えたのでしょうか。ご自分の覚知です。人間は何を神に捧げるのでしょうか。自分の信仰と愛情です。これは、神が人間に熱望するものです[5]。実に次のように書かれています:「イスラエルよ、今、あなたの神なる主があなたに求めているものは何か。あなたの神なる主をあなたが畏れること、あなたが主の諸々の道の中を歩むこと、あなたが主を愛すること、主のすべての掟をあなたが守ること、あなたのことを尽くし、あなたの思いを尽くしてあなたの神なる主に仕えることではないか[6]」と。主に与えられるべき諸々の捧げ物、諸々の賜物とはそういうものです。しかし、私たちが私たちの心からのそれらの諸々の捧げ物を主に与えるのは、先ず、私たちが主を覚知し、主の井戸の深みから主の慈しみの覚知を飲んでからでなければなりません。



[1] Nb.21,18-20. 新共同訳では、次のように訳されている:「彼らは荒れ野からマタナ、マタナからナハリエル、ナハリエルからバモト、バモトからモアブの野にある谷へ、そして荒れ果てた地を見下ろすピスガの頂へと進んだ」とある。

[2] 以後の拙訳の無断使用は絶対に許さない。

[3] Nb.21,18.

[4] Nb.28,2: Munera mea, data mea.

[5] Quid dedit Deus homini? Agnitionem sui. Quid homo offert Deo? Fidem suam et affectum. Hoc est quod expetit ab homine Deus.

[6] Dt.10,12.

 

次へ