19 福音の中では主ご自身ではなく、弟子たちが、「ロバを解き放った[1]」ように、この箇所でも、神ご自身によってではなく、み使いによって、「ロバの口が開かれます[2]」。また、諸々の福音において、見えない人たちが見える人たちを非難するように、ここでも、口のきけない者たちが、口のきける者たちを非難します。それは、主が言っていることでもあります:「父よ、私はあなたに感謝意志ます。なぜならあなたは、それらのことを、知恵ある者たちや思慮ある者たちから隠し、小さな者たちに啓示されたからです[3]」と。したがって、このロバの上に座り、それを縛っておいたのは、律法学者たちとファリサイ派の人たちでした。それゆえみ使いは、彼らに対して怒りました。そして、もしも将来の諸々の事柄に関する何らかの予見がなければ、彼らを滅ぼし、ロバを守ったでしょう。このロバは(み使いを)「見ました」、そして、ぶどう園に来て、「ぶどうの木の間に立った」み使いを畏れました[4]。ところがロバは、自分の上に座っていた人の「両足を石垣に押しつけました[5]」。おそらくそれで、その古来の乗り手は歩くことができず、次のように言う方の許にいけないのでしょう:「苦労し、重荷を背負わされている者たちよ、私の許に来なさい[6]」と。しかし、ロバは弟子たちに導かれて来ました。そして、報酬に貪欲だったバラムが座っていたロバに、今度は、イエスが座ります。



[1] Mt.21,2.

[2] Nb.22,28.

[3] Mt.11,25.

[4] Cf.Nb.22,23-24.

[5] Cf.Nb.22,25.

[6] Mt.11,28.

 

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