11 しかし、はやり私たちは、主がヤコブもイスラエルも呪わない理由には何があるかを、バラム自身から――いや、神が彼の口の中に置いた言葉から[1]――注意深く聞いてみましょう:「なぜなら私は、山々の諸々の頂から彼を見、諸々の丘から彼を理解するだろうか[2]」と(聖文書は)言っています。イスラエルは崇高な山々と諸々の高い丘の中に置かれていますから、すなわち、高く険しい生活の中に置かれていますから、その生活を眼差し理解ことは誰も容易にはできません――崇高で卓越した知識に昇らなければ。それで、神は、彼を呪わないと(聖文書は)言っています。なぜなら彼の生活は高邁でそびえ立っており、低く卑しいものでないからです。とはいえこのことは、肉的なイスラエルとしてのあのイスラエルについて言われたことでなく、地上を歩きながらも、「諸々の天の中に関心がある[3]」者について言われたことだと私に思われます。あるいは、それらの発言は、はやりこの(肉的な)民に差し向けられるべきだとしても、(聖文書は)正当にも区別をつけて、「私は見るだろう」、「私は理解するだろう」と言っています[4]。もちろんそれは、将来のことを指し示しています。そのとき疑いもなく、キリストの信仰に至った「すべてのイスラエルは救われ[5]」、「山々と諸々の丘から見られるでしょう[6]」――疑いもなく、「キリストとともに復活し[7]」崇高で天的な生活を地上で実行する人たちによって。さらに、(聖文書が)ヤコブについて「私は見るだろう」、他方、イスラエルについて「私は理解するだろう」と言っていることも、きわめて適切な区別の下に受け取られねばなりません。すなわち、一方は諸々の可視的な活動に向けられており、他方は不可視的な信仰と可知的な知識に向けられているます。あるいは、もしも私たちが、それらの事柄を未来の代に、すなわち、復活の時に向けるなら、「私はヤコブを見るだろう」という言葉は、諸々の身体について言われたと理解することができ、「しかし私はイスラエルを理解するだろう」という言葉は、復活した人たちの諸々の霊と諸々の魂について言われたと理解することができます。



[1] Cf.Nb.23,5.

[2] Nb.23,9.

[3] Cf.Ph.3,20.

[4] Cf.Nb.23,9.

[5] Cf.Rm.1,16.

[6] Cf.Nb.23,9.

[7] Cf.Col.3,1.

 

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