それゆえ私たちも、前回の解説で考えた事柄に従って[1]、今度は、このバラムその人が、ファリサイ派の人たちや律法学者たちやその他の類似の人たちの人格にされていることを説明することに努力しましょう。では、彼が「その諸々の寓意を受け取った[2]」後に言ったと書かれている彼の預言の諸々の言葉を、私たちは見てみましょう。

 彼は言います:「モアブの王バラクは、メソポタミアから、東方の山々から私を呼び出した[3]」。メソポタミアは、バビロンの諸々の川の間にあると言われます。それらの川についてこう書かれています:「あのバビロンの諸々の川の上に私たちは座り、泣いた――シオンを思い出しながら[4]」。ですからもしも人が、バビロンの諸々の川の間にいるなら、もしも人が欲望の諸々の流れに浸され、奢侈の諸々の大波に押し流されるなら、その人は立っているとは言われず、座っていると言われます[5]。そのようなわけで、そこに抑留されている人たちは言ったのです:「私ちは、バビロンの諸々の川の上に座り、泣いた――シオンを思い出しながら[6]」と。しかし彼らは、シオンを思い出さなければ、泣くことはできません。なぜなら諸々の善き事柄の想起が、諸悪の諸々の原因を嘆かわしいものにするからです。実に、もしも人がシオンを思い出さなければ、もしも神の律法と諸々の()文書の山々を見上げなければ、、彼は、自分の諸々の悪を嘆き始めることはありません。



[1] 『民数記第14講話』をさす。

[2] Cf.Nb.23,7.

[3] Nb.23,7.

[4] Ps.136,1.

[5] Cf.Hom.Nb.II,2; Hom.Ex.III,3.

[6] Ps.136,1.

 

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