14 しかし、最初の解決の方が()文書全体の諸々の意味、特に次の言葉によりよく適合していると私は思います:すなわちその言葉によると、「神は、忍耐強く、大いなる慈しみを持ち、諸々の邪悪に耐える」と言われています[1]。あるいは、エレミアによって一般的に告げられた言葉に適しています。すなわちその言葉の中で、神は、多くの憐れみと理解しがたいご自分の善性のゆえに、言うけれども行わず、語るけれどもこだわらないことがよりより明白に示されています。神はエレミアを通して言います:「最後に私は言いたい――これはつまり、私は決定的に語るだろう、ということである[2]――民と王国に対して:私は彼らを取り除き滅ぼす。しかし、もしも民が自分の諸々の邪悪から改心しするなら、私は彼らに行おうと考えていたすべての悪を悔いるだろう。また、最後に私は語る、民と王国に対して:私は彼らを建て直し、再び植える。しかし、しかしもしも彼らが私の声を聴かずに、私の前で諸々の悪を行ったなら、私は彼らに対して行うと語ったすべての善きことを悔いるだろう[3]」と。ですからどうして私たちは、エレミアによってきっぱりと言われた諸々の事柄よりも、バラムによって懐疑的言われる諸々の事柄の方を好むことができるでしょうか――後者が無精で軽視する人たちによって確認され、前者がいっそう完全な人たちによっていっそう密かに注目されるのでなければ。



[1] Cf.Ps.86,5; 144,8; Ex.34,6; Jl.2,13.

[2] ルフィヌスによる補足。

[3] Jr.18,7-10.

 

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