次に(バラムは)こう言っています:「彼は、言ったのに、行わないのか。語っても、こだわらないのだろうか[1]」。この箇所は、このように読まれねばなりません――あたかも問いかけるものの態度で彼は言っています:彼――すなわち神――は、言ったことを行わないのか。語った諸々の事柄においてこだわらないのだろうかと。他方、人間たちは、自分たちの言うことを行わず、人間的な弱さという欠点のせいで、自分たちの語る諸々の事柄においてこだわりません。なぜなら人間は可変的ですが、神は不変だからです。

しかし、人は反対して次のように言うことができます:それなら、どうして神は、ニネベに関して語った諸々の事柄――それは三日後に滅ぼされるだろうという事柄――においてこだわらなかったのか[2]。どうして神は、ダビデについて語った諸々の事柄においてこだわらなかったのか。そこでは、民を疲弊させるための致死的な荒廃が約束されたが、半日の内に止んだではないのかと[3]

 問いかけによって言われる諸々の事柄は、おそらく、厳密に確定的なこととして受け取られるべきでなく、言葉の或る綾のようなものであると思われます。すなわちそれは、何らかの中間的なことを示しているように見せるもので、確定的な撤回不可能な判断の感情を露わにしません。その結果、「彼は言ったなら、絶対に行う」と書かれている場合よりも、「彼は言ったことを行わないのか」と書かれている事柄において、より穏やかな何事かが言われたうように見えます。



[1] Nb.23,19.

[2] Cf.Jb.3,4(Sept).

[3] Cf.2S.24,13-16.

 

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