12 しかし、もしもあなたが、諸々の家と諸々の幕屋の違いと、ヤコブとイスラエルの相違も問題にするなら[1]、そのことについても、そのような違いがあると考えられねばなりません。家は、土台があり、安定し、特定の諸々の終極によって囲われている物です。他方、諸々の天幕は、常に途上にあり、常に歩いていて、その旅路の終極を見出さなかった人たちの何らかの諸々の住居です。したがって、(諸々の家を持つ)ヤコブは、諸々の行いと業とにおいて完成された人たちの象徴と見なされるべきであり、他方、(諸々の天幕を持つ)イスラエルは、知恵と知識とに対する研究を行う人たちであると理解されねばなりません[2]

 ですから、諸々の業と諸々の振る舞いとの諸々の行使は何らかの終わりによって閉じられますので――なぜなら諸々の業の完成は終わりがないわけではないからです。そのとき、人は、行うべきだったすべての事柄を成し遂げ、諸々の業の完成の終極に到達します――、諸々の業の完成そのものが「善き家」と呼ばれます[3]。他方、知恵と知識とに精力的に専念する人たちには、いかなる終わりもありません―一体どのような終極が神の知恵にあるでしょうか。人は前進すればするほど、より深遠な諸々の事柄を見出すでしょう。人は調査すればするほど、それらの事柄が曰く言い難く理解し難いものであることに気づくでしょう。実際、神の知恵は、「理解し難く、はかりがたい[4]」――。それゆえ、神の知恵の路を進む人たちの諸々の家を、(バラムは)褒めたたえず――なぜなら、彼ら終わりに到達しないからです――、諸々の天幕を賞賛します。彼らはそれらの天幕の内に、常に歩み常に前進します。そして彼らは、前進すればするほど、彼らが前進すべき路が延び、無限に広がります。それで(バラムは)、彼らのそれらの前進そのものを霊を通して見詰め、それらの天幕を「イスラエルの諸々の天幕」と名づけたのです。



[1] Cf.Nb.24,5.

[2] 省略

[3] Cf.Nb.24,5.

[4] Cf.4Esd.8,21.

 

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