14 次に、「星がヤコブから昇るだろう。そして、人間がイスラエルから立ち上がるだろう[1]」と彼は言います。それらの事柄については、私たちは既に次のように述べました:すなわち、明らかに、東方にいる魔術師たちに現れた星について預言されており、彼らは、その星を導き手としてユダヤに来、イスラエルの王として生まれた方を探し、諸々の贈り物を献げて、見つけ出された子を拝んだと[2]

しかし、その星そのものについて、福音の中でそれが魔術師たちをベツレヘムまで先導し、「子どもがいるところの上に来て止まった[3]」と言われた後、もはや次のことが言われていないのが私を驚かせます:すなわち、それがそこから立ち去ったとか、消えたとか、(上方に)取り上げられたとか、福音の物語が語り得る何らかの事柄もまったく言われていません。ただ(福音の物語は)、それが来て、「子どもがいるところの上に止まった」と言っているだけです。もしかすると、洗礼の時に「洗礼を受けたイエスが、ヨルダン川から昇ると、諸々の天が彼に開かれ、ヨハネは、神の霊が鳩のように降ってきて、彼の上に留まったのを見、『これは、十分に私の意にかなった私の愛すべき子である』と言う天からの声を聞いた[4]」のと同じように、「子どものいるところの上に止まった」あの星も、同じようにキリストの内に留まったのでしょう――「聖霊が鳩の姿において来て、彼の内に留まった[5]」と言われているように。私たちは、「神の霊が彼の上に来て、彼の内に留まった」ことを、神の霊が彼から決して離れたかったことと理解するように、彼の上に来て止まったあの星も、彼の上に止まって、彼から決して動かされなかったと理解されなければならないと、私は思います。

 ですから私は、あの星は彼の神性の指標であると思っています。このことから必然的に、預言の順序も諸々の同じ事柄を明示しています。なぜなら預言は、彼の神性について、「ヤコブから星が昇るだろう[6]」と言い、他方で、人間的本性について、「そして人間がヤコブから立ち上がるだろう[7]」と言っているからです。それは、両者においてキリストが、神性に即して、そして人性に即して、預言されていることが明らかになるためです。



[1] Nb.24,17.

[2] Cf.Mt.2,2-11

[3] Mt.2,9.

[4] Mt.3,16-17.

[5] Mt.2,9.

[6] Nb.24,17.

[7] Nb.24,17.

 

次へ