もちろん私は、もしかしたら神的な諸々の文書のどこかで、その言葉の下に何かしら似た発言が現れ得るかどうかを探求しました。使徒が次のように言っていることも、同じように注目されねばならないと、私には思われました:すなわち、「いったい誰が主の考えを認識したのか。あるいは、誰が彼の忠告者になったのか[1]」とあります。実にこの「誰が」という言葉は、「誰でもない」という意味ではなく、「希な人」ないしは「特別な人」という意味で理解されます。なぜなら、「子でなければ、そして子が啓示したいと願う人でなければ、誰も父を知らなかった[2]」と言った神の独り子がどうして神の考えを知らなかったでしょうか。したがって、父を知ることは、彼の忠告と考えを知ること以外の何なのでしょうか。また、神の諸々の深みを究める聖霊も、彼の考え以外の何を覚知するでしょうか。ですから、御子も聖霊も、そして御子が啓示したいと願う人たちが、主の考えを覚知します。そして、御子がご自分の神を覚知するなら、彼が覚知するものは神の忠告でもあります。しかし、忠告者という言葉は、御子と聖霊が何を行うべきか知らない者に忠告を与えるかのような意味で受け取られるべきではありません[3]。むしろ、御子と聖霊は彼の忠告と意思の参与者であり知者であるという意味で受け取られるべきです。



[1] Rm.11,34.

[2] Mt.11,27.

[3] 直訳した。明らかに誰か(ルフィヌス?)の手が加えられている。本来のテキストは、日本語で言えば、「忠告者という言葉は、御子と聖霊に、彼らが何を行うべきか知らない者であるかのように忠告を与えるという意味で受け取られるべきではありません」であったろう。

 

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