順序は、特に諸々の業の実りから、さら少なからず諸々の思いの壮麗さから知られます。実際、しばしば次のことが起きます。すなわち、卑しく低級な思いを抱き、地上の諸々の事柄に味を占める人が、司祭職の優れた地位や教師の座を占める。他方、霊的で、地上の交わりから自由になり、「自身は誰からも裁かれず、すべての事柄を吟味する[1]」ことができるようになった人が、劣った奉仕職の位階[秩序]を占めたり、一般大衆の中に残されたりする。しかし、このようなことは、律法と福音の諸々の定めを軽視するものであり、秩序にかなった振る舞いでもありません。

 もしも私たちの誰かが、飲食物を気にかけ、一切の気遣を諸々の世俗的な事柄に向けるなら、全日の一、二時間を神に割き、祈りのために教会に来きたとしても、あるいは、通りすがりに神のみ言葉を聞いたとしても、そのおもな配慮を、世俗や腹の気遣いに費やすなら[2]、その人は、次のように定める命令を果たしません。「人は、みずからの順序に従って進まなければならない[3]」。あるいは、「すべての事柄は、秩序に従って行われなければならない[4]」と。実際、この秩序は、キリストによって定められたものです。すなわちそれは、「まず神の国とその義を求めること」、次に、「これらのものは私たちに」神によって「増し加えられる[5]」ことを信じることです。ですから「人は、みずからの秩序に従って進まねばなりません」。



[1] 1Co.2,15. 司祭オリゲネスは、謙虚である。

[2] Cf.Ph.3,19.

[3] Nb.2,2.

[4] 1Co.14,40. オリゲネスはしばしば、信仰に不熱心な人たちを責めている。拙論『エレミア書講話解説』を参照せよ。

[5] Mt.6,33.

 

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