諸々の印の違いの理由をもっと明瞭にするために、次のことを付け加えておきましょう。

 文字を知っている人は皆、文字の諸要素――ギリシア語の場合には二十四字、ラテン語の場合には二十三字[1]――を学んだことは確実であり、それらの諸要素から、書かれるべきすべての事柄を書きます。しかし、パウロが書く印、たとえばアルファは、ペトロが書く印と異なります。同様にあなたは、個々の文字によって書かれる諸々の印が、文字を知っている人ごとに違うのを見出すでしょう。そのようなわけで、個々の手によって書かれた諸々の手稿は、なる固有の諸々の印や標識によって識別されるのです。(文字の)諸要素は同じですが、文字の類似性それ自体においても、諸々の印の大きな違いが存在します。したがって目下の事柄の例が、あなたにとってすっかり明瞭なものであったなら、今度は、何らかの行為へと駆り立てる精神と魂の諸々の動きに進んでください。あなたは諸々の手稿をご覧ください。どのようにして、たとえばパウロの魂が貞潔を提示し、ペトロの魂も同様にしたかをお考えください。ペトロには固有の貞潔がある、パウロにはこれまた別の貞潔があります――(両者の貞潔が)同じものに見えても。要するに、彼らの一方の貞潔は、「彼の体が苦しめられ、隷属される」ことを要求し、「それは・・・しまわないためです[2]」と言い添える貞潔です。しかし他方の貞潔は、この「それは・・・しまわないためです」ということを恐れません[3]。同様に正義も、パウロにおいて何がしかの独自性を持っていますし、ペトロにおいてもそうです。知恵も他の諸徳も、同様でしょう。

 



[1] この補足は、オリゲネスがラテン語の存在を知らないはずはないので、オリゲネス自身によるものと考えることもできる。しかし、ルフィヌス訳にはしばしば見出される補足(特に『諸原理について』)で、これはルフィヌスの手になるものと考えるのが妥当である。

[2] 1Co.9,27.「それは・・・しまわないためです」(ne forte)は、新共同訳では、「それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです」となっている。直後の文章(発言)でも、同じ言い回し(ne forte)がされていることから分かるように、これは写本の欠陥(欠落)ではなく、オリゲネス自身による省略であろう。

[3]オリゲネスは、ペトロが結婚していたことを念頭に置いてこのように発言したように思われる(1Co.9,5)

 

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