そこで(聖文書は)言っています:「諸々の名前の数に従ってより多くの者たちにはより多くものが取り分として与えられねばならない。そしてあなたは、僅かな者たちには僅かな嗣業地を与えねばならない。おのおのに、数えられた通りに、各自の嗣業地が与えられねばならない[1]」と。歴史は、次の通りです:すなわち、もしもある部族が諸々の民の中で(他の部族)より数が多ければ、土地のより多くの諸々の空き地が分け与えられます。しかし、もしもある部族が、人間たちのより少ない数において数えられるなら、より狭い地所で満足すべきであると。

ところで、この地との分割と地上の嗣業地は、まさに「将来の諸々の善き事柄の像」を保持しており[2]、信じ深い聖なる人たちが希望する天的な嗣業地の形象を明示していると、私たちは(常々)言っています。そこで私は、その希望すべき嗣業地の中で、誰が数多い人たちが、そして誰が少ない人たちかを探求します。すると私は、より幸いな人たちが、数多いというよりも、少ないことを見出します。実際、「滅びに至る広く余裕のある道を通って」旅をする人たちは「多い」と言われています[3]。他方、「命に至る狭く窮屈な道を通って」前進しつづける人たちは「少ない」と呼ばれています[4]。また、他の諸々の箇所でも、「救われる人は何と少ないことでしょう[5]」と言われています。また、他の諸々の箇所の中で、「不正が増えると、多くの人たちの愛が冷える[6]」とあります――少ない人たちの(愛ではありません)。そればかりか、ノアによって建設された箱()――これには、天から諸々の寸法が与えられています――においても、より低い諸々の箇所の中に、「三百腕尺の長さ」と「五十(腕尺)の広さ」が置かれています[7]。しかしその組み立ては、より高い諸々の箇所に上がるほど、窮屈なものに狭められ、少ない腕尺の囲いによって囲まれます。その結果、その(箱の)頂点は、一腕尺の空間の中に収められます。そのようなわけで、広く余裕のある諸々の場所が準備されたより低い諸々の箇所の中には、獣たちや家畜たちが位置づけられ、より高い諸々の箇所の中には鳥たちが位置づけられました。しかし、より窮屈でより狭い諸々の頂の中、そこに理性的な人間が位置づけられます。他方、先端それ自体は、一腕尺に収斂します。実に、すべてのものは、一なるものにへと連れ戻されます。ところで、この一なるものは、三百腕尺という数において三位の神秘を示しています。そして、人間は、理性的で神を受け容れることができるわけですから、この神秘のいちばん近くに置かれます[8]



[1] Nb.26,53-54.

[2] Cf.He.10,1.

[3] Cf.Mt.7,13.

[4] Cf.Mt.7,14.

[5] Lc.13,23.

[6] Mt.24,12.

[7] Cf.Gn.6,15.

[8] Cf.Hom.Gn.II,1.

 

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