21 さらに別の祝祭もあります――それは、彼らが自分たちの諸々の魂を苦しませ、神のためにみずからを卑しめて、諸々の祭りを祝うときです[1]。ああ、驚くべき祝祭、祭日が魂の苦しみと呼ばれるとは!実際その日は、第七の月の十日目に当たる宥めの日だと、(聖文書は)言っています[2]。ですからあなたは、次のことをお気づきください:もしもあなたがその祭日を行いたいなら、もしも神があなたのゆえに喜ぶことをあなたが望むなら、「あなたの魂を苦しませ、それを卑しめなさい[3]」。あなたは魂に、その諸々の欲望を満たすことを許すべきではありませんし、諸々の淫乱の中に留まることをそれに認めるべきではなく、可能な限りそれを苦しませ、卑しめるべきです。実に過越の祝祭も諸々の種なしパンの祝祭も、「苦しみのパン[4]」を持っていると言われています。さらに人は、「苦しみのパン」を食べなければ、そして、苦菜とともに過越(の子羊)を食べなければ、その祭日を行うこともできません。実際(聖文書は)言っています:「あなた方は、種なしパンを苦菜とともに、あるいは辛みのある諸々の菜葉とともに食べなければならない[5]」と。ですからあなたは、神の諸々の祝祭がどのようなものであるかをご覧ください。それらは、身体的な身体的な甘美を受け入れませんし、いかなる弛緩も、いかなる享楽も奢侈も望みません。むしろそれらは、魂の苦しみと辛さと卑下をを要求しています。なぜなら、「自分を卑しめる人は、神の許で高められる[6]」からです。それゆえ宥めの日も、そのことを要求しています。実際、「魂が苦しめられ、神のみ前で卑しめられるとき[7]」、神はその魂に対して再び宥められます。そしてそのとき、その魂の許に、「神が信仰上の血による宥めの供え物として提示した方[8]」、すなわち、その魂の主であり贖い主であるキリスト・イエスが来られます。



[1] Cf.Nb.29,7.

[2] Cf.Nb.29,11.

[3] Cf.Nb.29,7.

[4] Cf.Dt.16,3.

[5] Ex.12,8.

[6] Lc.14,11.

[7] Cf.Jc.4,10.

[8] Rm.3,25.

 

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