そこで今、私たちは、既に書かれている諸々の事柄に進むことにしましょう。(聖文書は次のように)言っています:「そして主は、モーセに語って言った:『あなたは、イスラエルの子らに命じて、彼らに向かって言いなさい:私の諸々の献げ物、私の諸々の贈り物、私の諸々の生け贄を魅惑の芳香の内に、私の諸々の祭日の内に注意して献げるように気を配りなさい。そしてあなたは、彼らに向かって言いなさい:それらは、あなた方が主に献げるべき私の諸々の生け贄である』と[1]」。誰ひとりとして、自分の何かを主に献げません。彼が献げるものは主のものです。人は諸々の自分のものを献げるというよりも、彼の諸々のものが彼自身に帰されます。ですからそのようなわけで、主は、人間たちによってご自分に献げられるべき諸々の生け贄と諸々の献げ物の諸々の律法を書こうとお望みになり、先ず、献げられるべきすべての物の理拠を開示して、次のように言っています:「私の諸々の献げ物、私の諸々の贈り物、私の諸々の生け贄を魅惑の芳香の内に、私の諸々の祭日の内に注意して献げるように気を配りなさい[2]」と。あなた方が私の諸々の祭日に私に献げなさいと、私があなた方に命令するつもりのそれらの生け贄は、私の諸々の贈り物である、すなわち、私によってあなた方に与えられたものである;なぜなら、人類が持つありとあらゆるものを、人類は私から受け取ったからである、と(主は)言っています。ですから人は、献げられるべき諸々の献げ物において、善行の何がしかを神に授けていると思い込んではなりません。まさにそのことによってその人は、神を崇拝しているように見らていることそれ自体において、不敬虔者になるでしょう。実際、不足を託つ神に人間が何かを提供する思うことほど不敬虔なことはないでしょう。ですから、既に私たちが申したように、先ず人間に、彼が神に捧げるものがどのようなものであれ、彼にそれを献げるというよりも、返すのだということを教えて知らせる必要がありました。

しかし私たちは、次のこと、すなわち、どのような意味で彼は、「私の諸々の祭日にあなた方が私に献げるべき諸々のもの」と言っているのか見てみましょう。



[1] Cf.Nb.28,1-2.

[2] Cf.Nb.28,2.

 

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