10 それらの後で、諸々の誓いの律法が定められます。そしてモーセは、その立法において新しい原理を使います[1]。実際、彼は言っています:「人間・主に誓いを誓うすべての人間[2]」と。このような名前の反復の原因は何でしょうか。まるで、「主に誓いと誓う人間」と言ったのでは十分ではないかのようです。では、「人間・人間」と言ういうことは何であるか、そして、人間という呼称の反復は何を意味するのかは、沈黙によってやり過ごすべきでないように私には見えます。使徒は次のことを教えています:すなわち、「内的な人間」と「外的な人間」はそれぞれ別であり[3]、前者(の人間)は、「彼を創造した方の像に従って、日に日に更新されます[4]」。他方、後者(の人間)は、可視的なもので、腐敗させられます。ですから(人間が)、神の律法を受け入れ、諸々の誓いを神に捧げられるほどにまで進歩したならば――ところで、神に捧げるべきものを自分自身の内に、そして自分自身の実体の内に持っていなければ、誰も諸々の誓いを神に捧げることはできません――、前者の「外的な人間」が神の律法を受け入れるだけでは十分でなく、「外的な人間」だけが諸々の誓いを捧げるだけで十分ではありません。なぜなら「外的な人間」は神に相応しい何かを持つことができないからです。むしろ、後者の「内的な人間」こそが、神に捧げるべきものをみずからの内に持っています。実際、この「内的な人間」の内に、諸々の徳の住まいがあります。彼の内に、知識の一切の理解があります。彼の内に、神的な像の更新があります。人が自分の形姿――彼はその形姿によって始めに神によってつくられました――を回復したなら、諸々の徳の更新によって以前の姿の美しさを取り戻したなら、そのときこそ彼は、諸々の誓いを神に捧げることができます。そして、そのときこそ彼は、たんに人間と言われるだけでなく、「人間・人間」と言われるでしょう。



[1] 取りあえず訳者(朱門)は、lexを「律法」、legislatioを「立法」と訳した。

[2] Cf.Nb.30,3.

[3] Cf.2Co.4,16.

[4] Cf.Col.3,10.

 

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