ですからそのように、次のことは比喩的に見ることができます:すなわちある人は、「諸々の新しい物の祝祭[1]」のために、ある人は「安息日の祝祭」のために、ある人は「諸々の幕屋の祝祭」のために、神を人間たちと和解させるために、いわば牡山羊あるいは牡牛あるいは雄羊として献げられると見ることができます。なぜなら諸々の罪が存在する限り、諸々の罪のための諸々の犠牲も求める必要があるからです。実際、たとえば罪が存在しなかったと、あなたは仮定してください。もしも罪が存在しなかったなら、神の子が子羊になる必要はなかったですし、また、彼が肉の内に置かれて屠殺される必要もなく、彼が「元において神であるみ言葉[2]」のままだったでしょう。

しかし、「罪がこの世界の中に入ってきた[3]」ので、また、罪のの必然性が贖いを求めており、贖いは犠牲によってしか行われないので、罪のための犠牲が準備される必要がありました。そして、罪そのものには、様々で多様な諸々の性質が属していましたから、様々な生き物の諸々の犠牲が命令されました。それらは疑いもなく、諸々の罪の多様性に対応しています。ですからそのように、み使いたちや人間たちであれ、聖人たちの或る者は、私たちが申しましたように、或る祝祭の中で民の諸々の罪のために仲立ちする牡牛になり、或る者は、或る祝祭の中で雄羊になります。彼らの取りなしによって、諸々の罪のための清めが行われます。



[1] Cf.Nb.28,26:訳者は直訳している。新共同訳では「七週祭」と訳されている(既出)。

[2] Jn.1,1.

[3] Rm.5,12.

 

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