11 しかし、「母胎を開くすべての初子の代わりに[1]」と言っている箇所を論じたり、解明したりするのは、容易ではないように私には思われます。なぜなら、「母胎を開く」者はだれでも、ただちに、初子の承認に相応しいと見なされるわけではないからです。実際、私たちは、『詩編』にも次のことを読みます。「罪人たちは、母胎を出たときから常道を外れ、子宮を出たときから道に迷い、諸々の偽りを語った[2]」。このことは、文字通りの意味では決してあり得ません。いったい誰が、母の子宮から出るやいなや、神の道から迷いだすことができたでしょうか。生れたばかりの子が、どのようにして、諸々の偽りを語ることができたでしょうか、あるいは、どのような言葉をしゃべることができたでしょうか。ですから、人が母の子宮を出てから(ただちに)道に迷ったり諸々の偽りを語ったりすることは不可能ですから、「罪びとたちは、母胎を出たときから常道を外れ、子宮を出たときから道に迷い、諸々の偽りを語った」という言葉が当てはまり得る子宮や母胎が探求される必要があるでしょう。それこそ、神のために聖別されたすべての初子が開く母胎でしょう。かつて「神は、レアの母胎を開きました[3]」。彼女の母胎は閉じられていましたが、(それによって)太祖たちを産みました。ラケルも同様でした。彼女も子どもを産みました[4]。「彼女の目は澄んでおり、容姿は美しかった[5]」とあります。しかし、聖書の他の多くの箇所においても、あなたは、数々の母胎が開かれるのを見出すでしょう。それらの母胎の一つひとつを、あなたが場所ごとに考察すれば、どのような意味で、「罪びとたちが母胎を出たときから道に迷い」、「母胎を開く」他の人たちが初子たちの位階[秩序]に聖別されるのかを、あなたは見出すでしょう[6]



[1] Nb.3,12.

[2] Ps.57,4.

[3] Cf.Gn.29,31.

[4] Cf.Gn.30,22.

[5] Cf.Gn.29,17.

[6] 『フィロカリア』に収録された『ローマの信徒への手紙注解』では、オリゲネスは、『詩編』57(58),4を神の予知の観点から説明している。しかし、オリゲネスの思想に一貫する魂の先在の仮説が前提にされているのは疑い得ない。

 

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